「人身得ること難し、仏法値うこと希れなり、今我等宿善の助くるに依りて巳に受け難き人身を受けたるのみに非ず遭い難き仏法に値い奉れり。生死の中の善生、最勝の生なるべし」道元禅師『修證義』
慈雲寺は法然上人を宗祖として、證空上人を流祖(派祖)とする浄土宗西山派(西山浄土宗)に属していますが、周辺に代々住んでいる人の多くは曹洞宗のお寺の檀家です。この曹洞宗のお寺は檀家が非常に多いので、月参りをすることが難しい状態です。そこで、慈雲寺が代わってお参りすることもあります。そんな時は、曹洞宗の日課経を読誦しますし、道元さまの『修證義』も拝読します。
私はこの『修證義』が大好き。文章に勢いがあって、品格があり、道元さまの思いが伝わってきます。道元さまと證空さまは、実は親戚。名目上は兄弟です。一方は徹底した自力、他方は徹底的な他力の信仰ですが、『修證義』を読むと、兄弟に共通する鋭さと優しさを感じるような気がします。
さて、最初に挙げた文章は、この『修證義』の第一章に出てくる言葉です。「人として生まれてくることは難しい。仏法に出会う機会に恵まれるのはさらに稀だ」という認識は、道元さまだけでなく、宗派を超えて説かれていることです。
仏教は、生きとし生けるものは六道を繰り返し輪廻していくと考えています。そしてこの輪廻の中にいる限りは、苦しみから逃れることはできません。
しかし、人間に生まれ、仏法に出会うことができれば、悟りを開いて輪廻から脱出することが可能になるのです。お釈迦様八万四千もの「悟りへの道」を説いて下さいました。さらには、その道をたどることが困難なものたちのために、阿弥陀仏が極楽という理想の修行の場を用意して下さっていることも説いて下さいました。
この「悟りへの道」を示す教えを聞くことができるのは、六道のうち、人間と天人だけです。さらには、人間に生まれても仏法に出会える機会は限られています。人間に生まれて、さらには仏法に出会えたことの幸せを道元さまは「最勝の生なるべし」と強調しています(つづく)
◎総本山光明寺で見た桜の紅葉です。地面に落ちてもなお鮮やかな色を残しているのが、かえって哀れです。