日本の神道における神様は、正しい(適切な)まつり方をしてお願いをすれば力を発して、その願いをかなえてくださいます。参拝の仕方も、お供えの整え方も、そうした正しいまつり方に沿ったものでなければいけません。お賽銭も「正しいまつり方」としての一連の行動の一部です。収穫物などのお供えの代わりという面もあるでしょう。
かつては「賽米」といって、お米を投げ入れる箱もあったそうです。お米には特別な力があると考えられていますから、お清めの行動と理解することもできると思います。
お寺でも金銭やものでの「お供え」をしますが、仏教におけるお供えの意味は大きく違います。多くのお寺でお賽銭箱に「喜捨」と書かれています。もともとは禅宗の言葉だそうですが、その意味は「喜んで捨てる」です。
仏教では、自分の欲望、執着、こだわりから離れるための修行を重要視します。布施はその修行の一つなのです。自分の持っているもの、とりわけ金銭は、私たちが最も強く執着するものです。それを喜んで捨てることによって、こだわりから離れる修行です。
ですから、金額が多いとか少ないとかの問題ではないし、「ご縁(五円)を結ぶ」といった駄洒落で金額を決めるものでもありません。自分が喜んで、手放す・・・というところが何より肝心です。
惜しい・・・という気持ちが起きたら、その自分の執着やこだわりを見つめなおして、それがどれほど自分を苦しめているか省みるきっかけと考えてはいかがでしょう?
ご近所の方が、畑で採れたものなどをお供えして下さることもあります。これも同じです。自分が時間や労力を使って栽培した成果ですから、それを金銭に変えず、お寺にお供えすることは、執着を離れることに他なりません。
また、布施には金銭やものだけでなく、「身施」も重要です。これは労力や智慧を布施する行動です。例えば、お寺の掃除や行事の手伝いなどもその一つ。慈雲寺でも、多くの方がこの身施をしてくださいます。このお力添えがなければ、とてもお寺を維持することはできないでしょう。
身施の場合も大切なのは「喜んで捨てる」です。お付き合いだからとか、檀家だからというのでは、本来の修行とは違ってきてしまうかもしれません。(つづく)