2)-2 師僧としての力量
弟子を受け入れるということは、私が自分の師僧から受け着いたものを次世代に受け渡すことに他なりません。本来仏教は、お釈迦様から弟子へ、そのまた弟子へと、「水をたたえた鉢から、別の鉢へ一滴もらさず注ぎ込むように」伝えられてきたものということになっています。
う~ん・・・・私の場合は、兄弟弟子がたくさんいたので(私は師僧の13番目の弟子でした)、師僧は基本「放牧」。兄弟子に基本的なお経の読み方、声明の節、威儀作法基本を教えていただきました。また、本山に付属する短大で一年間の聴講をしたときに、基本を学んだ・・・・ことになっています。
しかし、一年間教科書を読んだだけでは、身に着いたことはほとんどなかったと言わなければなりません。それは先生のせいでも、カリキュラムの脆弱さのためでもなく、私が自分から積極的に学ぼうとしなかったためです。
僧侶は、法式(さまざまな儀式のやり方や作法)、教学(宗派の教え)、布教(お説教の技術や、説教の内容の教学的な裏づけ)の三方向で研鑽を積まなければならいことになっています。もちろん、それぞれの僧侶で得手不得手の分野はあるでしょうが、三つの分野でバランス良く実力を育んでいくことが求められています。
私の最初の師僧である橋本随暢上人は説教師として卓抜した才能のある方でしたから、私も説教師(布教)に重点を置いて修行していこうと思いました。今から思えば、なんとも浅はかでした。
良き説教師は、しっかりした教学の裏付けを築き、法式も伝統にのっとってできる人でなければ、説得力のある布教はできないからです。
と、いうわけで、私は自己卑下でも謙遜でもなく、「手持ちのカード」少なすぎる僧侶です。男性ならば本山で随身(修行僧として本山に住み込み、さまざまなことを学び、実体験できるシステム)することも可能ですが、女性の弟子となると、私が伝えられるものがあまりに少ないので、いったいどうすれば・・・と、頭を抱えてしまっているのが現状です。
師僧としての力量があまりに貧弱なので、慈雲寺に弟子を迎えるのには正直躊躇してしまいます。しかし、門戸を閉めてしまいたくもない。得度(僧侶としての第一歩)したいと願う方にはできるだけのことをして差し上げたいというのも、また正直な私の願いです(つづく)