慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

人身受け難し・・・・・なぜ生きるかについて考える Part 2

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日曜寺の境内には梅の木ただくさん植えられています。花の季節にはたくさんの方がお参りにいらっしゃいます。

 

 「人身得ること難し、仏法値うこと希なり」

 前回ご紹介したこと言葉は、曹洞宗を開かれた道元禅師の『修証義』の第一章のお言葉です。しかし、人間に生まれることがいかに難しいかという認識は、けして道元さまだけのものではなく、仏教に共通したものだと言って良いでしょう。

 『華厳経』の中にも説かれていますし、法然上人も、證空上人、親鸞聖人も繰り返し、「生まれてきたことを喜びなさい」と教えて下さっています。

 

 私たちは果てしない過去から輪廻を繰り返し、今ようやく人間に生まれてきて、仏の教え、仏法に出会うチャンスを得たのです。

 これがどれだけ稀有なことかというのは、「盲亀浮木」という有名なたとえがあります。『涅槃経』というお経に書かれたお話です。

 大海に、100年に一度だけ海面に姿を現す亀が棲んでいました。この亀は目が見えないのですが、ある時、この亀が海面に顔を出すと、そこに穴の開いた木が浮かんでいて、偶然その亀は浮木の穴に頭がすっぽり入ってしまったというのです。広大な海、めったに海面に現れない盲目の亀・・・・それが小さな浮木の穴に頭が入ってしまう・・なんという確率でしょう!

 お釈迦さまは、人間に生まれてくるということは、それほど稀有のことなのです。ましては、仏の教え、仏法と出会うのは、さらに希なこと。

 しかし、この出会いはけして奇跡や偶然ではありません。道元さまは「宿善の助くるに依りて」とおっしゃっています。輪廻を繰り返すうちに私たちが積み重ねてきた善き行いに依って縁が熟したのです。

 

 生まれてきた意味、生きる意味について、私たちは時に心を悩ませます。なぜ生きるのか、いや、なぜ生まれてきてしまったのか、これ以上生きる意味かあるのだろうか・・・私たちが絶望し、なぜ生きるのかという疑問に苦しめられているときこそ、生まれてきたことの「稀有のチャンス」を思いましょう。

 そして、そのチャンスを仏教との出会いに結びつけていくことにより、私たちは「生死の中の善生最勝の生」を生きて行く勇気と穏やかさを得ることができるのです。