慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

胸に紫色の痣ができたころ  「なぜ生きるのか」を考える

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慈雲寺の本堂の上がり口を守る象

 21日の日曜日(10時より)にお彼岸の法要を兼ねて、「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行うことにしました。その準備をしているところですが、ノートを作りながら「私はなぜ生きるのか疑問になったことはあっただろうか?」を改めて自問しています。

 そこで思い出したのが、私の胸に紫色の痣ができていたときのことです。

 30年ほど前、カナダに住んでいた私は、さまざまな人生の転機が積み重なり、そのほとんどが「自業自得」(当時は仏教からみた本当の”自業自得”の意味は知らなかったのですが・・・)だったので、悲しみや怒りをどこに向けることもできず、知らず知らずのうちに自分を攻撃していたようです。

 胸が苦しいような気がして、胸の真ん中辺りを指先でトントンとたたくのが癖になりました。けして強い力でたたいていたわけではありません。トントン・・・トントン・・・気がつくと指が胸のところにあるのです。

 ある朝、起きて着替えようとしたとき、ふと自分の胸を見ました。すると、胸の辺りに痣ができていたのです。500円玉ぐらいの大きさでしょうか。痣は深い紫色で、まるで何か硬いもので殴られたような色でした。

 私はようやく自分が深く病んでいることに気がつきました。医者に行かなければならないと、その痣が叫んでいるように感じたのです。医者の診断はうつ病でした。

 「一人で暮らしているなら入院しますか?」と聞かれたので、医者は自殺を懸念していたのではないかと思います。

 私は「自分は自殺を思ったことはありません」と医者に答えていたのですが、彼女は「じゃ、薬を飲んで、ご飯を食べるようにしましょうね。ご飯を食べないのは、スローな自殺よ」と言いました。このあたりのやりとりは、カナダならでは?日本の精神科医だったら、こんなにはっきり言わないのではないかと思います。

 幸いなことに、その日処方された薬は、すぐに効果をあげ始めました。しかし、胸をたたく癖はなかなか抜けず、痣が消えるまでには長い時間がかかりました。

 しかし、この痣は、私が僧侶になるきっかけを作ってくれた「縁」のひとつなのかな?と思っています。仏教は「なぜ生きるのか」を追求する教えですから・・・