前回のブログに「講演会で平常心を失った」と告白(?)したところ、そのブログを読んだkさんからお電話をいただきました。kさん御夫妻は毎月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」にも来てくださり、なぜか絶妙のタイミングで喫茶店のモーニングに誘ってくださって励ましてくださる方々です。
その電話でkさんは「謙遜し過ぎ!ちゃんと庵主さんの気持ちは伝わっていると思う」とおっしゃってくださいました。
僧侶にとって、「傲慢」や「うぬぼれ」は、最も避けるべき心根です。しかし、「自己卑下」もまた色々と問題の多い心持なのです。
浄土教の教えでは、「凡夫の自覚」こそが信仰の出発点であり、基盤です。凡夫の自覚とは、阿弥陀仏のお慈悲、願いによってしか、自分は救われることのない「悪人」であると自ら気づくことです。
「あなたたちの信仰は楽でいいよね。南無阿弥陀仏と念仏してさえいれば良いのだから。でもそんな簡単なことで救われるのかい?」という言葉を時々聞きます。
確かに、法然房源空上人(法然上人)の残されたお言葉を表面的に見れば、「念仏さえすれば救われる」と受け止めることができます。しかし、その教えには「凡夫の自覚」というものがともなっているのです。
「凡夫の自覚」は簡単なことでしょうか?私はとても難しいことだと思っています。
例えば、「自分は頭が悪くて」とかいう人はたくさんいますが、そんな人に「そうですよねぇ。私も前々から、あなたは理解が遅くて愚かな人だと思っていました」なんて言ったら大変なことになってしまうでしょう。
過剰な謙遜や自己卑下の裏には、えてして「傲慢」がひそんでいるからです。「頭が悪い」と卑下する心の奥に、相手から「とんでもない、あなたが愚かなんて感じたことありませんよ!」という返事を期待してはいないでしょうか?
自分は救われようのない悪人、凡夫だと自覚することはけして簡単なことではありません。(づづく)