慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

謙遜と卑下の違いは?・・・・・凡夫の自覚 Part 2

f:id:jiunji:20210412211758j:plain

有松の旧東海道沿いの商家の桜

 先週はこんなに美しく咲いていた桜も、すっかり葉桜になってしまいました。季節の移り変わりはけしてのんびりしたものではなく、日々刻々とせわしないものですね。人の命の儚さも同じようなものかもしれません。

 さて、「謙遜と卑下」の違いについて考えてみようと書き始めたのですが、半分まで書いてから、ずいぶん間が開いてしまいました。

 今月から毎月一回、鳴海の中日文化センターで仏教入門の講座を担当させていただけることになり、11日がその第一回目でした。仏教が何を目指している宗教なのか、仏教を理解するのに役に立つ基礎知識などのことを順序だててお話しようと思っているのですが、なかなか難しいです。その準備に心を奪われて、このブログに戻ることがおそろかになっていました。

 基礎固めの役に立つ知識をわかりやすくお伝えするためには、お話する私自身がしっかり基礎を理解している必要があります。しかし、この講座の準備を始めた途端、自分の理解のあちこちに穴があいていることを思い知らされました。

 これは本当にありがたいことです。気がついたらどう補うのか考え、教えを受ければ良いからです。謙虚に現実に向き合うことが結局は解決への一番の近道でしょう。

 

 さて、自分が凡夫だと自覚することは、けして簡単なことではありません。ずいぶんと勇気がいることです。「凡夫の自覚」とは、けして安易に自己卑下することではありません。「どうせ私なんか、平凡な人間で」とか「どうせ私なんか、何もできない役立たずで」と口に出す人は良くいますが、本当にそうした自分と向き合っているでしょうか?

 自己嫌悪に悩んでいるという人も、実は「自分は本来はこんな人間ではないはず。」という虚像を抱えている場合もあるでしょう。これもまた現実に向き合っているとはいえません。

 仏教では、あらゆる修行は「誠の心」を持って行わなければ本来意味がないのだと教えています。しかし、末法の世に生きる私たちの行動や思考は、褒められたいとか、よく思われたいとか、なんらかの利益を求めて行われることがほとんど。修行にも、こうした「煩悩」や「欲」にまみれてしまいがちです。

 純粋で誠の心を持った行動・思考でなければ、修行として意味がないとしたら、私たちは自力で仏の示した道を歩くことができるのでしょうか?

 自分の本当の姿を直視するには勇気がいります。しかし、自分が「凡夫の自覚」をしっかり見据えたところに立てば、後はお釈迦様が示してくださった極楽への道が見えてくるはずです。