慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

「国威発揚」のためのオリンピック・パラリンピックなのか?

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ネットからお借りした、パラリンピック種目のゴールボールのイラストです。

 今日はある方とお話したので、パラリンピックのことを考えていました。

 私はバンクーバー冬季オリンピックパラリンピックが行われたとき、通訳としてお手伝いをしたのがきっかけで、パラリンピックの候補選手の海外遠征に添乗員兼通訳として何回も同行したことがあります。仕事としてお受けしたのですが、当時、パラリンピック関係の競技団体はどこも予算的に厳しい状況でしたので、通常の添乗員報酬の10分の1程度の金額を示されましたが、喜んでお手伝いさせていただきました。

 選手たちや、それを支えるコーチなどの役員、そして家族の方々の真摯な態度には、素直に感動したし、やりがいのある仕事だったと思います。ボッチャの国際審判員を養成する講座の通訳として北京に同行したときは、自分も審判員の訓練を受けたいと真剣に思ったほどです。

 さまざまな競技種目の選手たちとお話する機会に恵まれたことは、私にとって学ぶことも多く、貴重な体験だったと感謝しています。

 

 しかし、東京でのパラリンピックの開催が決まってから、選手を取り巻く人々の雰囲気が微妙に変化してきたのです。国からの補助金が増えたことによる、お金がらみの不思議な雰囲気、マスコミに注目される選手とそうでない選手の扱いの違い・・・・私は広告代理店の仕事に少しだけかかわったことがあるので、お金の流れが人の心を変えていく気配に過剰に反応してしまうところがあります。

 

 「東北の復興をアッピールする」とか、「コロナ禍を克服した姿を世界にアッピール」するためのオリンピック・パラリンピックというなんだから、戦時中の「国威発揚」みたいな扱いにも違和感を強く感じています。

 必死に戦う選手たちの姿は、自然に感動を呼ぶものです。しかし、マスコミや政府の対応は、無理やり「感動をありがとう!」という雰囲気を盛り上げようとしているように思えてなりません。コロナ禍で深まるさまざまな問題から、「感動」で目を逸らそうとしているのなら、利用される選手たちが気の毒です。

 

 僧侶はたとえスポーツでも「争いごと」は避けるべきでしょう。ましてや、ここまで商業化し、利権の巣窟のようになってしまったオリンピックに関わるのはどうなのかなぁ・・・と思い、少しずつパラリンピック関連の仕事から遠ざかってしまいました。今では、遥か彼方の出来事のようです。しかし、お会いした選手たちが今も競技を”楽しんで”いてくれることを祈らずにはいられません。