夜明け前から天井を走り回るネズミ!冬の間は足音が聞こえなかったので、ネズミにも見捨てられたか・・・と、貧乏寺を嘆いていたのですが、戻って来たら来たで悩ましい。勝手なものです。
さて、このところ承認願望について考えていて、前回のエントリーでは、他からの承認ばかり求めていても、本当の安心や幸せは得られないのでは?と書きました。おいしそうな料理の写真を撮っても、インスタ映えばかり気にしていると、肝心の料理は冷めてしまって、本当のおいしさを味わえない・・・・空しい承認はかえって寂しさしかもたらさないのでは?・・・と軽く(?)問いかけたつもりだったのですが、いつもするどいスマッシュを放ってくださるももはなさんが、↓のようなコメントを書いてくださいました。
承認願望や要求を放棄すると、自己満足地獄に陥るのではありませんか?
特に住職の様な「僧侶」では、信者の上に鎮座する悪魔になるのではありませんか?
自分の背中に少しだけ過重をかける軽い承認願望は必要では有りませんか?
それに軽い承認願望が達成される事で、また頑張ろうと言う糧になるのでは有りませんか?
この承認願望や要求は「足りるを知る」同様、私の様な商人の端くれから、1年で何兆円と利益を上げ、何十万人の社員達やその家族を養う大企業の社長まで、
札束と言う武器を手に戦う自由主義社会の商人としての在り方や、存在する意義の根幹に関する最重要な件です。
胸がすくスッキリした御教導をお願い致します。
「スッキリした御教導」という言葉にすっかりビビッてしまい、しばらくボンヤリしていました。
すると、昨日、ある方の法事でお目にかかった僧侶の方とお話していて、偶然承認願望の話になりました。S上人は、私がさまざまな面で教えをいただいている方です。上人は日ごろから、「世の中の流行とか、空気とか、政治とか、そうしたことが判断の基準になるのではなく、それが仏の教えに沿っているかどうかだけが大事」と言っておられますが、その時も「僕には承認願望はないなぁ・・・・」とあっさり。
ほんとかいな?という心の声が思わず顔に出てしまいました。「承認願望が強い人は、無条件で愛された経験が少ないのではないかなぁ。阿弥陀様は何の条件も付けずに私たちを受け入れてくれているのにね」とニコニコ。
でも、そのすぐ後に、「この前、娘に『うちの子はどうしてこんなに良い子なんだろう』って言ったら、娘が『親の育て方が良いんじゃない』って言われたよ」とまたニコニコ。
おいおい、それって「承認」を大喜びしてませんかね・・・
というわけで、まだまだ「御教導」まで道遠しです(つづく)「