慈雲寺は一寄進で建立されたお寺なので、伝統的な意味での檀家はゼロ。さまざまなご縁で葬儀を頼まれることはあるのですが、年に数回あるかないか・・・・だったのですが、今年は毎月のようにご縁を結んでくださる方があります。
しかし、人間の死という大切な場で大きな役割を担うというのは、僧侶として未熟な私にとって、さまざまな意味で心と体に影響があります。葬儀での法話は、佛縁を育む最も大切な機会ですし、見送る縁者へのなぐさめとなるものでなければなりません。なかなか十分な内容に到達できないので、いつも反省ばかりで、数日は心身共にすっかり打ちのめされてしまいます。文字通り、へたばってました・・・
さて、承認願望についての続きです。
私は、励ましの言葉をかけたり、褒めたりすることを不要だと言っているのではありません。むしろ、日本人はもっともっと、言葉にして褒めたり、励ましたりすべきだと思っています。
カナダの人の多くは、会ったときにすぐに何かコメントをしてきます。相手の服装だったり、表情だったり・・・ともかく、何か褒めようと「手ぐすねを引いている」感じです。これはけして無闇なお追従やお世辞なのではなく、「私はあなたのことを見ていますよ。ちゃんと関心を持っていますよ」ということを示す行為だと思います。
相手に関心を持ち、相手の言葉や行動に興味を示すことは、「承認」の第一歩です。
しかし、中身のない空虚な「賞賛」や「承認」を集めても、結局むなしさは深くなっていくばかりでしょう。
どれだけ多くの人に承認されたかだけを喜んでも、いつかむなしくなってしまうでしょう。誰に認められ、褒められたかが問題だし、その「誰」と自分との間に信頼関係が確立していればこそ、その承認は実のあるものになると思います。
さらには、何を褒められ、認められたのかという「内容の深さ」も問題ですね。
信頼や尊敬できる人との豊かな関係性の上にあってこその「承認」や「賞賛」が本当の喜びをもたらしてくれるのではないかなぁ・・・・
尊敬できる友人、家族から認められ、褒められるのは嬉しい。でも、本当の友人や家族なら、「あなたがあなたであるだけで十分」「生きていてくれるだけで嬉しい」はずだから、承認をあえて求めなくても大丈夫ですよね。
阿弥陀様は何の条件もつけずに全ての衆生を極楽へ迎えとってくれますよ。阿弥陀様に願われている身の上だと知れば、それ以上の承認はすべて「おまけ」です。