昨夜(9月21日)は、旧暦(太陰暦)の8月15日。旧暦では7月から9月が秋なので、8月15日はちょうど秋の真ん中というわけです。この時期は空気が澄んで、月が輝きを増すので、中秋の名月と言われるようになったのでしょう。しかし、実は満月と中秋が重なるのは案外少ない。え?15日は毎月満月じゃないの?・・・・月が楕円形の軌道で動いているので、太陰暦の15日がぴったり満月にはならないらしい。小学生の理科でした。
というわけで、慈雲寺では毎月、お月見をかねて写経の会を行っているので、中秋の名月を楽しみにしていました。月見団子も届けていただいたし、ススキもご近所を走り回ってゲット。はさみを持って空き地に進入する坊主・・・ちょっと怪しすぎました。
でも、残念ながら昨夜はお月様を眺めることはできませんでした。あの雲の上で輝いているのだろうと、思われる、雲の色が少し明るくなっているところは見えたのですが・・・
阿弥陀様は、いつも私たちをその広大はお慈悲で照らしてくださっているのですが、仏の救い、仏の願いが見えずに迷っている私たち。雲を吐き出しているのは私たちの煩悩です。厚い雲を自らの力で消すのは大変な努力と覚悟が必要です。
しかし、阿弥陀様の救いについて説いて下さったお釈迦様の言葉に素直にうなずけば、月の光は誰の心にも染み込み、柔らかに輝きます。
私たちの目はしばしば曇ってしまうけれど、心を照らす光はけして消えることはありません。
下を向いてため息ばかりの夜は、空を見上げてみましょう。思いがけず、月や星を眺められることもありますよ。夜はけして哀しく、さみしいものではないことに気がつくでしょう。暗いからこそ、気がつく光もあるのです。