先月下旬、私にとっては人生を大きく方向転換するきっかけを作ってくれた恩人S上人が遷化(亡くなること)なさいました。
私は浄土宗西山派(西山浄土宗)の僧侶ですから、Sさんは極楽へ旅立ち、やがて私もそこでお会いできると思うものの、哀しみ、寂しさ、そして恩返しも、感謝の気持ちも十分にできなかった後悔で、しばらくぼんやりと過ごしていました。
同時期に、尼僧の法類として近しいお付き合いをさせていただいたM尼もご遷化されました。法類というのはお寺として親類のような関係で助け合うお仲間です。多くは独身ですごす尼僧にとって、法類を見送るのは特別な哀しみがあるものです。
法類は、中陰の間、七日ごとに集まって法要を行います。今、一般の方の場合、初七日を葬儀の日に行ってしまい、それからの二七日以降の法要を省略し、四十九日で忌明けとしてしまうことが多いようです。しかし、Mさんの中陰の法要を法類と一緒に勤めていると、この七日ごとの法要が大きななぐさめになることに気がつきました。
もちろん、「ああすれば良かった、こうもしたかった」という後悔がなくなるわけではありませんが、やり場のない哀しみは薄れていくし、「後悔のすくなくなるように、これからこうしよう・・」というポジティブな方向に、この経験をいかしていこうという気持ちも少しずつ出てきました。
葬儀から火葬場、そして遺骨を抱いて葬儀会館へ戻り、すぐ初七日法要・・・一般の葬儀の流れになっています。遺族は、臨終までの看病や介護、そして哀しみで心身は深く疲れています。さらに納棺や通夜、さまざまな手続きなども押し寄せてきます。
以前であれば、なんどか葬儀を経験している親戚やご近所の人たちが手助けしてくれましたが、今は多くのことを遺族だけでしなければなりません。
Sさんの場合は法類も多く、檀家や寺役員の組織もしっかりしているので、遺族が翻弄されるということはないだろうと思いますが、M尼の場合は遺族ななかなか大変なようです。(つづく)