先月、二人の僧侶が遷化なさり(亡くなること)、さまざまなことを改めて考えているところです。
その一人、Mさんのお寺と慈雲寺は「尼僧法類」と呼ばれるつながりがあり、葬儀からそれ以降の法事も、親戚と同じように関わることになりました。
通夜から葬儀、火葬場での炉前の読経などをMさんの姉妹や甥子さん方と一緒に勤めさせていただきました。それから7日ごとにMさんのお寺にうかがい、中陰の法要を勤めることになります。
今は、葬儀から火葬、そして初七日の法要、初七日の食事を一日で行ってしまう場合が多いようです。遠くから葬儀に集まって下さる方もあるでしょうから、初七日をいっしょにしてしまおうというのは、一見「合理的」のように思えますが、家族の心身の疲労は筆舌に尽くしがたいほどで、私はとても疑問に思っています。
初七日では、ゆっくり中陰の意味についてお話し、身近な人の死から学ぶ仏教的な生き方について、できるだけ丁寧に説明させていただきたいと思っています。しかし、すっかり疲れきったご家族、親戚の方々のお顔を見ると、初七日の法要はいつも「そそくさ」という感じで終えてしまい、いつも心残りな思いを抱いてしまいます。
◎中陰とはなにか
さて、「中陰」とは何でしょう?一般的な説明ですと、人が亡くなってから49日の間は、まだ次はどこに輪廻していくか決まっていない状態になります。その間、7日ごとに、閻魔大王などによる裁判が開かれ、生前の行いの善悪を判断されます。この裁判の結果によって次に生まれるところが決められるのです。
中陰の法要は、故人に縁のある人々が集い、僧侶を招いて法要することによって、その功徳を故人に回向するのです。良い行いの功徳を故人に手向け、故人の裁判を少しでも有利にしようという思いを形にしたものと言えるでしょう。
しかし、浄土系の教えでは、葬儀で引導を渡されたとたん、故人は阿弥陀仏に迎えとられて極楽へ直行します。49日も行き先不明で迷っているわけではないのです。
故人はすでにお浄土へ行っているのに、なぜ中陰が必要なのでしょうか?(つづく)