少し前のことですが、ときどき慈雲寺の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を聴きにきて下さるAさんから電話がありました。
「あの~」と少し遠慮がちに話し始めたAさん、「本当に失礼かと思うのですが・・・実は昨日、親戚の葬儀に出たのですが、お供えのお花をたくさんいただきました。でも、なんだか家の中に飾る気持ちになれなくて・・・半分はお墓と仏壇にお供えしたのですが、まだたくさん残っています。
慈雲寺さんで使っていただくわけにはいかないでしょうか?」とのことでした。
私は思わず「喜んで、使わせていただきます!」と嬉しさいっぱいの声を出してしまい、近しい方を亡くされたばかりだったと申し訳なく思いました。
以前、このブログにも何回か書きましたが、仏様へのお供えの花は、できれば毎日替えたいくらいです。しかし、それは経済的に難しい・・・裏庭を花畑にして仏花自家生産を目指してはいるのですが・・・怠け者の私はなかなか思うように進みません。
と、いうわけで、お花のお供えはいつでも大歓迎!ときどき、お庭に咲いた花を持ってきてくださったり、Aさんのようにお供えのお花のおすそ分けももちろん大歓迎です。
ところで、Aさんが「家の中に飾る気持ちになれない」という言葉が気になりました。花の種類や色が趣味に合わないというのではなさそうです・・・・
どうも、お葬式で使われた花というところが気にかかっているようです。
縁起が悪いとでも感じているのでしょうか?穢れている??
「穢れ」というのは、私たち日本人の心に今も深く根付いている感情です。仏教が日本に入ってくる以前からのものです。
神道では、「善悪」は、「清い」と「穢れ」として現されます。穢れをできるだけ避け、清い心、清い環境を維持していくのが日本古来の「善」なのです。
穢れはできるだけ避けなければなりません。最もパワフルな穢れは「死」です。穢れを避ける行動を「忌」(いみ)といいます。私たち日本人はたくさんの忌みごとに囲まれていました。例えば、出産が忌みごととされたのは、死に直結する「血」を穢れたものと考えるからです。
葬儀に出席したら、自宅に入る前に塩を全身に振り掛けるのは、この「穢れ」を塩で清めるためだとされています。
その上、「穢れ」は伝染する!と考えられています。つまり、穢れに触れた人や物に触れれば、触れた人も穢れてしまうというのです。
しかし、日本にお念仏の教えを確立した法然房源空上人(法然上人)は、「仏教に忌という事なし!」ときっぱりおっしゃっています。この法然上人の力強いメッセージは、忌みごとにがんじがらめになっていた鎌倉時代の人々の心を大きく揺さぶったようです(つづく)