慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

二月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、2月20日(日)10時より行います。テーマは「聖徳太子って誰でしょう? 太子信仰の姿」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加下さい。

死体を嫌悪するのは究極の自己否定? Part 2

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慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺で見今年(11月初旬)の紅葉。

 

 ご遺体の火葬を行う火葬場は、東京や神奈川などですでにキャパシティを超えている状況だそうです。「多死社会」を迎えてはいるものの、それほど年月がたたないうちに、次は人口が激減するのが明白ですから、建設費も建設場所も確保が困難な火葬場を新設するのは現実的ではありません。そうなると、火葬の順番待ちという事態が、今後15年ぐらいはつづくでしょう。すでに順番待ちのご遺体を受け入れる「遺体ホテル」も存在しますし、新たに建設しようという動きも活発だと聞いています。

 前回のブログで、この「遺体ホテル」建設とその反対運動に関する新聞記事を引用しました。友人とこの話をしたところ、「ゴミ処理場でも保育園でも、自分や家族にとって必要なものなのに、”どこか別のところ”にあってほしいなんて、勝手だよね。」としみじみ・・・確かに、必要なものなのに自分のお隣にあるのは嫌・・・う~ん。

 その新聞記事では触れられていませんが、日本人の心の奥に深く根付いている「死穢」への怖れが、今になって却って私たちの心を鷲づかみにしているのではないでしょうか?コロナ禍で、死への恐怖は確実に私たちの心を侵食しています。

 葬儀を地域や自宅で行うのではなく、葬儀場を遣い、湯灌なども専門家にゆだねてしまって、家族が「遺体」に触れない状況では、生きていた人間と遺体になってからの人間に大きな溝ができてしまうのは当然でしょう。

 神道では、私たちが安全で穏やかな暮らしを続けるためには、「ケガレ」を避けることが最も重要だとされています。そして死によるケガレ、「死穢」は、最もパワフルで伝染力の強いケガレとされてきたのです。

 仏教が死後の世界を語り、死がけして「悪」ではないことを伝えるまで、私たちの祖先は「遺体」を非常に怖れてきたはずです。

 僧侶による葬儀は、近しい人の死がもたらす哀しみを癒やし、自分たちもまたやがて死する存在であることを改めて認識させるきっかけを育むものです。それによって、人々は生きていくことの意味を見つめ直し、生ききるための力を育めるはずなのですが・・・

 「家族葬」が当たり前となり、コロナ禍を理由に直葬もめずらしくなくなり、遺灰は散骨・・・その人の生きた証も記憶も猛スピードで消えてしまう・・・このような状況が広がれば広がるだけ、実は死への恐怖も深まっているのではないでしょうか?

 

 こういう時こそ、僧侶の役割が問われているのは感じていますが、私はまだまだオロオロしているだけなのが情けないところです。