今朝もお月参りにでかけようとしたら、ハラハラと雪が舞い始めました。トンビを着て自転車で出かけます。ほんの少しの雪ですら、寒くて、自転車も滑らないかと心配・・・私の父は新潟で鉱山を経営していたことがあって、雪深い山奥で子供を育てることは難しいと単身赴任でした。一年の半分近くも雪に埋もれる豪雪地帯で、家族のために独りで働いていてくれた父のことを思い出した朝でした。
さて、先日、家族連れでお参りに来て下さった方があります。本堂前のおみくじを引いて、「あ、大吉だぁ!」と大きな声をあげて笑い合っていました。
そのご家族の笑顔がとても素敵だったので、「和顔施」のことを思い出しました。
和顔施とは、『雑宝蔵経』というお経に説かれている「無財の七施」の一つです。
布施というと、金銭での布施のことだと思われる方が多いでしょうが、本来、布施とは欲望や執着など、自分を惑わせ、苦しめている煩悩を手放すための修行なのです。
私たちが時間や労力、いわば命を削って生み出している金銭に執着が生まれるのは、ある意味当然のことでしょう。それを喜んで捨てる「喜捨」していくことで、その執着を少しでも手放すことによって、自分自身を苦しめている煩悩から自分を解放することができるのです。
財物を喜捨することだけが布施ではありません。「無財の七施」は、誰にでも、いますぐにできることが示されています。
その一つが「和顔施」(わげんせ)です。穏やかな笑顔、表情で人に接することをいいます。自分の心の中のこだわり、怒りなどをしっかり見つめ、原因を考え、それにこだわる気持ちを手放して行くことで、表情も穏やかになっていきます。
朝起きたら、鏡に向かってニッコリしてみませんか?「面白いことなど何も無い!」という方も、今朝、無事に目が覚めたことだけでも十分にニッコリする価値があるとは思いませんか?
ニッコリでスタートすれば、和顔施を行うチャンスが次々とやってくるでしょう。
「眼施」(げんせ)は、優しいまなざしを人に施すことです。ま、顔は穏やかなのに、目だけ意地悪という人もいないでしょうから、眼施と和顔施はワンセットでしょうね。
「目は口ほどにものを言う」という言葉もあります。相手の目を直接見てしまうと視線がきつくなりすぎると感じるなら、眉毛の間、眉間のあたりを見ると良いでしょう。柔らかな視線は布施の修行の第一歩です。
あ、もちろん、慈雲寺は財施も有り難く・・・・・・