今朝、5時半ごろに目がさめ、朝のニュースを見て、今日が阪神・淡路大震災の起きた日であることを思い出しました。まだ夜も明けぬ極寒の早朝に起きたことだったのだと、改めて胸がいっぱいになりました。
今朝の勤行では、犠牲者の方々の菩提を願わせていただきましたが、残された方々の哀しみや痛みはいかばかりかと、祈るだけではなく何かできることはないのかと考えています。
私の親戚や友人で亡くなったり怪我をした人はいませんでしたが、この時のことがきっかけで、今まで押さえていた問題が噴出してしまい、家族がばらばらになってしまった親類がいます。このことは、私自身の「家族」という問題にも大きな問いかけになりました。
また、震災直後から宗教関係の人たちがどのように動いたのかも忘れることはできません。どのような活動が本当に被災者の方々に役にたったのか明らかではありませんし、私の属する浄土宗の西山派(西山浄土宗)では、個々の寺院でどのようなことが起きたのか記録も十分に残されていません。命の問題、心の問題に直結する事態に、宗門がどのように取り組んだのかを記録し、今後に生かして行かなければならないと思います。
震災から27年。経験者の老齢化も進むでしょうから、記憶の継承は急務です。
こんな時は、自分の宗門が小さな事、宗門の大学があればなぁ・・・と思わないではいられません。
私は震災当日、たまたま日本に一時帰国していました。当時、私は森林関係の業界で通訳として糊口をしのいでいたのですが、「神戸の住宅がどうなっているのか、報道写真をかき集めてカナダへ早く戻ってこい!」という指示を受けて、出版されたばかりの特集写真雑誌をかき集めてカナダへ戻りました。
ツーバイフォーの住宅が地震に強いことを確認したかったのでしょうし、すぐに住宅再建のための木材が必要になると考えられたからでしょう。
私はアッと言うまに「商機」という興奮に巻き込まれ、宗教者としての立場を忘れて、考えるべきこと、見るべき事を見失って行きました。
自分の愚かさに忸怩とする思いです。
仏教では、心を落ち着かせて状況をしっかり見よと、繰り返し教えているのに・・・