末法の時代に生きる凡夫である私たちは、誰もが心の奥に「無明」という漆黒の闇を抱える「根暗」なのです。
無明とは、サンスクリット語の「モーハ」を語源とする言葉で、「真理に暗いこと」を意味します。「馬鹿」という言葉の語源でもあるそうですが、この場合の「馬鹿」は、私たちが日常耳にするようなものとは根本的な違いがあります。
仏教は、私たちの苦しみの原因をしっかりと見つめ、その根本的な原因を取り除くための智慧とその実践の教えです。
その第一歩が、私たちが生きているこの世界は迷いの世界であり、その世界の一切は「苦」であるという真実に気が付き、そこから目を離さないことです。
そして、その「苦」の原因となるのが、煩悩、妄執、そして愛執と呼ばれる激しいこだわりです。自分の思い通りにならない・・・この思いが私を苦しめているのです。
そして、この煩悩や妄執を生み出しているのが、私たちの心の奥にある根源的な無知・・・・無明です。
しかし、この第一歩を踏み出すのは、なかなかに難しいことです。自分の根本的な愚かさを認めることは、自己認識の基盤を揺るがすことだからです。
「自分は頭が悪くて・・・・」と謙遜して見せる人がいるかもしれませんが、「ああ、やっぱり自覚なさってたんですね!私も以前から、貴方は愚かだと思ってました」なんて応えたら大変なことになるでしょう。
仏教は私たちが抱える無明に光を呼び込む智慧です。その実践のための修行法をお釈迦様は八万四千種類も教えて下さっています。日々修行に励み、「思い通りにしたい!」というとらわれの心から離れるのが信仰の道です。
とはいうものの・・・・自力で自分の愚かさに向き合い、無明を克服しようとするのは簡単ではありません。それを憐れんで救いの手を差し伸べて下さっているのが阿弥陀仏です。
阿弥陀仏は、煩悩まみれ、暗愚まみれの凡夫をその身そのまま極楽へ迎え取ってくださる仏様です。(つづく)