末法の時代に生きる凡夫の私たちは、誰もが心の奥に「無明」という闇を抱えている”根暗”なのです。
この無明の闇は次々と煩悩を生み出し私たちを苦しめます。この闇に光りを呼び込むための教えとその実践こそが仏教なのです。
しかし、私たちはお釈迦様がお示しになった修行を自力で続けることは極めて困難な状況です。末法の時代は、そこに生きる私たちの能力や環境が劣悪だからです。
では、私たちは根暗もまま生きて行かなければならないのでしょうか?私たちの苦しみを哀れんで慈悲の光を差し伸べて下さっているのが阿弥陀仏です。
古代インドの言葉では、この如来の名前はアミターバ(अमिताभ, Amitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्, Amitāyus)といいます。
「アミタ」の「ア」は否定形を示す言葉で、「ミタ」とは「量る」という意味です。つまりア・ミタは量ることができない、無量のということになります。
阿弥陀ということばは、この「アミタ」を中国語で音訳したものです。音を顕しているだけなのです。
「アミタ」に命(寿)を意味する「アーユス」がついて「アミターユス」の意味を漢訳すると「無量寿」仏となります。
そして光を意味する「アバー」がついて「アミターバー」を漢訳すると「無量光」仏となるわけです。
限りない光である無量光仏は、私たちの深い闇にも光を届けてくれています。私たちは心の扉を開いて、その光をたっぷりと浴びれば良いだけです。
そのために必要なことは何もありません。私たちの方で用意しなければならないことや、満たさなければならない条件はないのです。
阿弥陀仏は、法蔵菩薩として修行に励んでいらしたとき、全ての衆生を無条件に極楽へ迎え取って救うという誓願を立てられました。
その誓願が成就されているからこそ、阿弥陀仏が存在するのです。
お念仏は救われの条件ではありません。阿弥陀仏に願われているということを知った時、喜びのあまり口からこぼれ出るものだと、法然上人の高弟証空上人は教えて下さっています。
阿弥陀仏の願い、阿弥陀仏のお慈悲を知ったとき、その仏との強い縁を感じたとき、私たちの心に光りが差し込んできます。
もちろん、私たちの煩悩がすぐに消えてなくなるわけではないでしょう。しかし、本当に大事なものはなんなのかを知る智慧、私たちの生き方そのものを見直す勇気が「光」に照らされて育っていくのを感じることができるでしょう。
それでも「闇」に圧倒されそうになったり、苦しみに沈みそうになったら、お寺に出かけてみませんか?
阿弥陀仏の前で静かに手を合わせるだけで、呼吸が楽になってくるのを感じるかもしれません。
御近所にぜひ「いきつけのお寺」を探して下さい。
慈雲寺では、いつでも本堂に上がっていただけるように扉を開けています。お茶やお菓子も用意してありますので、ぜひ一服していってください。
門の所の本棚も少し眺めて見て下さい。今の気持ちにぴったりな本に出会えるかもしれませんよ!