慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

「教える」ことは「学ぶ」こと

三河湯谷温泉の朝です。名古屋から1時間ほどで行かれるのに、幽谷という感じ。

 

 このところ、毎日セッセと講義の準備をしています。講義のタイトルは「仏教要義」という恐ろしいもの。

 つまり、仏教の要点、キモのようなものを教えろというご指示です。受講して下さるのは僧侶を志して第一歩を踏み出したばかりの人たち。年齢も経験もバラバラですし、仏教に関する知識もまちまち。

 たいへん難しい課題です。

 

 私の役割は「基礎を叩き込む」なんてことではなく、仏教的なものの見方、考え方のポイントに興味を持ってもらうことです。

 「仏教って現実や社会、人間の本質をとても興味深い把握のしかたをするんだなぁ。おもしろそう!」と受講者が思ってくれれば大成功と思っています。

 

 一番あぶないのは、難解な仏教用語の説明で終わってしまい、結局仏教の面白さ、深さを伝えられないこと。

 予備知識が一切なくても解りやすいお話を心がけようと思っているのですが、これが実はとても難しい。自分がきちんと理解していないことを人に「わかりやすく」お話することなどできるわけがないからです。

 

 私は昔、アインシュタインアメリカの高校生向けに書いた相対性理論の本を読んだことがあります。相対性理論の解説本に一時は「サルでもわかる相対性理論」系の本をたくさん読んだのですが、結局このアインシュタインの本が一番わかりやすかった。

 よくわかっている人は、説明もできる・・・ということかもしれません。

 あ、もうすっかりその説明は忘れたので、私に聞かないでくださいね(笑)

 

 というわけで、講義の準備をすればするだけ、自分の理解が浅い(ま、浅いに決まっているのですが、特に浅い)所が見えてきて、ここ数か月バタバタしているわけです。

 

 しかし、人に「教える」ことは、自分が「学ぶ」ことでもあるなぁとつくづく思います。自分の理解の弱いところが浮き上がってくるので、それを補強しようと思えば思うだけ、私にとっての「学び」の機会になるというわけです。

 

 今回の講義では、授業中にいろいろ受講生に質問したり、あちらからの質問を受けたりしながら進めようと思っているので、私の理解の穴があからさまになってしまうリスクもあります。ドキドキするけど、楽しみでもある。

 

 何であっても、「教える」機会がいただけたら、まずは自分の「学び」にとって良い機会なのだと思っています。