上の写真は「奈良大和路~悠~遊」/ 奈良大和路~悠~遊~ (fc2.com) というサイトからお借りした、春日大社の正月行事の写真です。春日大社では、毎年1月2日に日供始式が行われます。日供とは、毎日朝夕に行われる神前へのお供えがつつがなく行えるように祈るものです。
この儀式には興福寺の僧侶が参列し、神前で唯識論を奉唱します。
神社で僧侶が読経?!と不思議に思われるかもしれませんが、実は明治初期に政府が神仏分離令を発するまで、日本各地でお寺と神社は深いつながりを持って存続してきました。
伊勢神宮や熱田神宮のような有力神社の境内にも、立派な「神宮寺」が存在していました。神と仏が一体になった、「神仏習合」は日本独特の宗教慣習として長い歴史を持っており、実は今でも私たちの生活の中に生きているのです。
阿修羅像で有名な興福寺は、奈良を代表する寺院の一つ。天平2年(730)に、光明皇后の発願で建てられたお寺です。光明皇后は朝廷で大きな力をふるっていた藤原不比等の娘です。興福寺は藤原家の力を背景に生まれた寺です。
一方、春日大社は神護景雲2年(768)に藤原氏の氏神として創建されました。始めはそれぞれ独立していたのですが、平安時代になって神仏習合思想が広まるにつれ、興福寺が「春日大明神は法相(興福寺の教義)擁護の神である」と主張し、一体化を進めました。
やがて、興福寺は春日大社を支配し、春日大社の領地は興福寺が管理するようになりました。興福寺は国司の役割まで担い、東大寺を除く、大和国内の全ての寺院を支配下に置くほどでした。興福寺の僧侶の一部は武装化して僧兵となり、大和一国を武力支配するまでになったのです。
その武力支配に圧力をかけたのが平清盛です。治承4年(1180)、清盛は息子の重衡に命じて奈良(南都)に兵を送り、激しい戦いになりました。この「南都焼討ち」は、日本初の大規模な宗教弾圧と言っても良いでしょう。
興福寺はこれによって主要な建物のほとんどを失います。しかし、鎌倉期に入ると興福寺は再び力を蓄え、大和一国を支配するようになります。次に興福寺に圧力をかけたのは織田信長です。信長や秀吉は興福寺の所領を厳しく検地し、支配権を強めていきます。それは徳川幕府にも引き継がれ、「春日社興福寺」の寺領は一万一千石と定められました。
江戸末期まで、春日大社と興福寺は一体となって続いていたのです。ですから、神前で僧侶が読経することは「平常の」宗教慣習だったわけです(つづく)