「仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あわれみぶかくして、かみをうやまい、しもをあわれみ、よろずをいとうことなく、ねがうことなくして、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたずぬることなかれ」(『正法眼蔵』)
上に述べた言葉は、曹洞宗を開いた道元禅師のおことばです。道元さまは、「只管打坐」という禅風。座禅は悟りを開くための手段ではなく、目的そのものだと教えています。
道元さまは、修行僧たちには非常に厳しい態度ですが、一般の信者には、上に掲げたような、やわらかな表現で、「もろもろの悪いことをせず、善きことをしなさい」と教えています。
上の言葉は柔らかですが、良く読むとなかなか難しいことです。とりわけ「よろずをいとうことなく、ねがうことなくして」というところが、私にはこころにささります。
慈雲寺は浄土宗西山派(西山浄土宗)に属しています。宗祖は法然上人で、派祖(流祖)は証空上人です。非常に興味深いことに、道元さまと証空さまは「兄弟」なのです。証空さまは養子なので、直接の血縁ではないようですが、同族なのは間違いないでしょう。同じ一族の中で、徹底した自力の教えを説いた道元禅師と、徹底した他力の教えを説いた証空上人が「兄弟」というのは興味深いですね。
恥ずかしいことですが、私という人間を一言で言えば「怠け者」もしくは「グータラ」です。道元さまの教えのもとでは、私が僧侶でいるのは不可能でしょう。
そんな私がお念仏の教えに出会えたのは、本当にありがたいことです。もちろん、お念仏の教えでも怠けて良いわけではありません。「努力」の大切さは、禅宗でも浄土宗でも同じです。
しかし、こんな私でも阿弥陀仏は極楽に往生させて下さると思うと、なによりありがたいと思えるのです。(つづく)