
梅の開花に浮かれていて、山茶花のことをすっかり忘れていました。山茶花は彩の少ない冬の間、私たちの心にホッとするひと時を加えてくれる花です。毎日、山茶花の花を楽しみにしていました。それなのに、春の花が咲き始めると、私の関心はすっかり他の花に・・・そして、ひっそりと山茶花の季節は終わろうとしています。人間なんて、なんて勝手なものなのでしょう・・・・
さて、私がこの慈雲寺に赴任してきて、「嬉しい!」と思ったことの一つに、この地域には幾つもの「講」が残っていることでした。
ご近所の庚申堂を守る庚申講。道元禅師の絵象をまもる「道元講」、子安弘法さまのお像をまもる「子安弘法講」、そして阿弥陀仏をまもる「阿弥陀講」などが、参加者の減少に悩みながらも続いています。
阿弥陀講(念仏講)とは、阿弥陀仏の木造や絵象などが二か月ごとに講仲間の家に祀られます。年に一度は講仲間がお寺に集まってお参りをします。もし、講の仲間に亡くなられた方が出たら(本来は臨終の時)、その仏像や絵象を亡くなられた方の枕元に運び、穏やかにお浄土へ迎え取られるのを講の仲間が見送るという慣習です。
本来は、臨終の枕元で行われるべきもので、安心して穏やかな臨終が迎えられるようにという宗教行儀です。阿弥陀仏の手と臨終の方の手を五色の糸で結び、阿弥陀仏が極楽へ迎えて下さる様子を再現するのが本来のありかたです。
また、葬儀準備、通夜の食事の用意などは講の仲間が協力して行うので、家族は慌てることなく、故人を見送ることができるという助け合いの仲間でもあります。
土葬だったころは、お墓の土を掘るのも、この講の仲間の役割だったようです。
私は、この臨終行儀というのは、とても大切なことだと思っています。カトリックの神父さんは、臨終の秘跡を今でも大切にしていると聞いています。仏教も、この臨終行儀から枕経、そこからの通夜葬儀までの流れこそが、人間の生きることの本質に触れる、大切な宗教体験であり、本当のグリーケアだと思っています。
◎今月の20日14時より、慈雲寺でこの地域の阿弥陀講の法要があります。講の仲間でなくとも参加できますので、どなたでもお気軽にご参加ください。
大きな数珠を参列者全員で回しながら念仏を称える「数珠繰り」と呼ばれる儀式は、とても素朴ですが、阿弥陀仏のお慈悲のありがたさを実感できる、とても良い経験になると思います。