
慈雲寺の仏教講座がご縁になって友人となって下さったH夫人の葬儀に諷経として参列させていただいてから、もう一か月がたとうとしています。
コロナ以降、直近の親族だけが参列する、いわゆる「家族葬」というものが一般的になっています。
しかし、私はこの傾向にさまざまな意味で深い危惧をいだいています。
「葬式」というものは、故人のご供養はもちろんですが、故人と縁があった人のグリールケアとしての役割も重要だと思います。
ある方が亡くなった時、悲しいのは直近の家族だけではないからです。何年も会わなくても、伯母さんや従弟が亡くなるの悲しい。縁の深さは色々でも友人、知人が亡くなるのは悲しい。ご近所のおばさん、おじさんにすぎない方でも、亡くなるのは悲しいからです。
「あなたとご縁ができて幸せでした。ありがとうございます」と心に思い、見送ることができるかどうか・・・・また、さまざまなご縁の方の死をきっかけにして、自分の生き方をみなおすきっかけとする・・・・などなど、グリーフケアとしての葬儀の役割は大きいはずです。
僧侶は葬儀の読経や法話を通して、この「グリーフケア」の役割をしっかり担わなければならないと思います。
葬儀というグリーフケアを経ないまま、死によってご縁が絶たれてしまうということは、人間の心に少なからぬ「傷」を残すのではないでしょうか?
今後、この「傷」の重なりが、私たちの心身にどのような影響を及ぼすのか、私はとても危惧しています。また、この「傷」の重なりに対して、宗教者としてどう向き合っていくのか思案しています。
H夫人の葬儀には、ご近所の方々やお友達がたくさん参列していらっしゃいました。とりわけお通夜の時には、その人々が心から哀しみ、H夫人を偲んでいることが伝わってきました。
派手な葬儀である必要は全くありませんが、友人、知人に見送られる葬儀の良さ、意義の深さを改めて思いました。