昨日からテレビは籠池氏の証人喚問のことばかり・・・この問題は日本の民主主義の根幹にかかわる問題ですから、注目を浴びるのは当然です。「百万円」が事実かどうかはもちろんですが、この点に矮小化するのではなく、政治家と官僚の結びつき、「口利き」などの、多くの関係者もきちんと喚問すべきでしょう。
しかし、私が深く気にかかっているのは一昨日(3月21日)に、「共謀罪」法案の国会提出が決まったという問題です。
私は大学時代に法学部で、法哲学と法制史を専攻しました。宗教と不可分だった古代法が専門だったので、そこから比較宗教学に興味を持つようになったのです。ですかtら、新しい法案が論議されるたびに、いつもいろいろと考えてしまいます。
今回の「共謀罪」は、非常に危険な要素をはらんでいると思います。「犯罪にかかわりのない一般の人は関係ない」と思うかもしれませんが、法律は時間や権力者の意思によって拡大されたり、捻じ曲げられて解釈されるようになる危険性を常にはらんでいます。
今回は「テロリズム集団」という言葉がとても気になります。いったい、「テロリスト」という判断基準はどこにあるのでしょう?政府や権力を持つものが、気に入らない人間に「テロリスト」とレッテルを勝手に張り付ける危険性は否定できません。レッテルをはれば、実際に犯罪が起きる前から処罰できるのが今回の「テロ等準備罪」です。
70年前、「非国民」とレッテルを張りさえすれば、どのような拘束も暴力も無制限に行うことができた時代に逆戻りするのではと懸念せざるを得ません。
もちろん仏教徒は、いかなる理由があっても暴力を容認すべきではありません。当然、テロ行為を認めるわけにはいきません。しかし、アラブの人々の行為は「テロ」で、それにアメリカ軍が報復攻撃をするのは「正義」という図式も間違いでしょう。
民主主義は選挙がすべてですが、政府や官僚の行動に疑問を持ち、声を上げる権利は常に保証されていなければなりません。もちろん賛同する権利もです。
レッテル張りで一刀両断することの危険を忘れてはならないでしょう。