上の写真は、先月和歌山市の博物館で見た「那智経塚」の断面模型です。
この塚は、那智の滝の参道付近で大正七年(1910)に発掘されたものです。
経塚は、平安時代の末期から各地で造られたもので、経典を埋蔵した塚のことをいいます。この塚が造られた目的は、経典の保存です。平安末期には写経が非常に盛んとなり、立派な厨子の中に保管されたり、さらにはこのような塚を作って保存しようとしたのです。
この動きの背景となっていたのが「末法」という仏教独自の歴史観です。お釈迦さまが涅槃に入られると、教えが正しく伝わることが徐々に難しくなると考えられていました。教えが正しく伝わらないばかりでなく、教えを受ける人間の能力も弱まり、社会環境や自然環境までも悪化を続けていきます。
そして、その末期的な状況になってしまう時代を「末法」と言います。お釈迦さまが示した修行法にしたがって修行し、悟りを得る可能性はほとんど絶望的。釈迦の教えを記録した経典も散逸する可能性が高くなっていきます。
釈迦滅後、何年たつと末法の時代に入るのかは諸説あります。しかし、日本では平安末期の1052年に末法の時代に突入したと考えるのが一般的でした。仏の救いを求める人は、厳しい時代の到来に恐れおののいたと言われています。
経典さえも消えてしまう・・・という恐れを抱いた人もたくさんいることでしょう。写経をし、経塚を作ってそれをできるだけ長く保存しようとし、その功徳によって救われたいと願った人々の切実な思いが、この塚に込められていることが、展示されたレプリカからも伝わってきました。
そして、全てが絶望的な末法の時代に、全ての人が平等に救われる道を求め、阿弥陀仏への信仰、称名念仏の救いについに到達し、浄土の門を開いたのが法然坊源空(法然上人)です。末法時代は1万年続くと考えられていますから、私たちも正に末法の時代に生きているのです。
法然上人が浄土門を大きく開いてから、今年で850年になります。