慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

愛知県の緊急事態宣言が解除された場合、6月27日(日)10時より「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行います。テーマは「埋葬されることの意義と墓地」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

沖縄慰霊の日に思う

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ローマの街角で見た野草。すみれの一種かな?

 今日は「沖縄慰霊の日」です。米軍の沖縄上陸から三ヶ月で日米双方の戦没者は20万人を越えたそうです。

 今日は朝から蒸し暑く、76年前の沖縄で防空壕や洞窟に逃げ込んだ人たちの苦しみと恐怖を思うと胸のつぶれる思いでした。朝の勤行でささやかながら戦没者の方々のご供養をさせていただいたのですが、なんだか「アリバイ作り」をしているだけのような気がして、自己嫌悪。

 再び戦争を起こさないために何ができるのか、ぼんやりと考えただけの一日でした。

 

 沖縄には一度しか行ったことはありませんが、米軍基地から爆音を轟かせて急発進する戦闘機を見たときは、この島の人たちの苦しみはまだまだ終わっていないと感じました。そして今、コロナ禍のただなかでも、医療体制の逼迫、患者の多さなど、沖縄は他の地域以上の犠牲を強いられているのではないでしょうか?

 

 大義名分の旗を振れば、道理もモラルも二の次、三の次になってしまいがち。命よりも大事なイベントって何なのでしょう?

 オリンピックの「大儀」の中身は、利権と空虚な名誉のように思えます。私はパラリンピックの選手候補の海外遠征の通訳などのお手伝いをしばらくしていたことがあるので、選手たちのオリンピックへの強い思いを少しは理解しているつもりです。しかし、現在の状況に一切目をつぶって、「大儀」を振りかざすことに疑問を持たないとしたら、いったいスポーツは人間にとってどんな意義があるのでしょう?

 

6月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」はお墓と埋葬がテーマです。

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ローマで見た花盛りの街路樹です。こぶしみたいですが・・・

 

 愛知県に出されていた緊急事態宣言がいちおう解除されましたので、

6月27日10時より 慈雲寺本堂にて「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行います。

テーマ: お墓や埋葬の歴史や意義について改めてご一緒に考えてみましょう。

 

 宣言が解除されたとはいえ、まだまだ警戒をゆるめられる段階ではないかもしれませんが、慈雲寺では、本堂の扉をすべて(錆付いて動かない扉もあるので全部ではないのですが・・・)開けて、外気が十分に通るようにし、座席の間隔もできるだけ開けるように用意いたします。

 入り口に消毒アルコールも用意しますので、手指の消毒をしてお入りください。

 いつもなら、お話の後は茶菓を用意して、皆さんでおしゃべりをするのですが.....それはまだしばらくやめておきましょう。でも、冷たい麦茶と紙コップは用意しますので、それぞれのお席でのどを潤してからお帰りくださいませ。

 

 前回のこのブログに仏壇のことを書きましたが、「お墓をお返ししたい」とか、お墓の維持は子供たちに負担になるので・・・などなど、お墓や仏壇の継承で悩んでいらっしゃる方が多いようです。お墓や仏壇への考え方は、宗派やそれぞれの僧侶によって違いがあると思います。慈雲寺は伝統的な意味での「檀家」のないお寺ですが、小規模ですが墓地はあるという特殊な状況です。

 この特殊なお寺の住職として、葬儀や遺骨の行き先、祀り方などについて日ごろ考えていることをお話したいと思います。皆様からも、ぜひご質問やお考えなどをお聞かせいただければありがたく存じます。

 

 講座というタイトルはついていますが、どなたにもわかりやすくお話することを心がけ手います。

 どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 慈雲寺には十分な駐車場がありません。公共交通のご利用をお願いいたします。

 慈雲寺へのアクセスについては慈雲寺ホームページ のcontact欄をご覧ください。

https://jiunji.weebly.com/contact.html

 

 

小さな部屋に仏壇やお位牌を祀るにはどうしたら良いでしょう?

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ローマの市立動物園の入り口です。レトロ感が、なんとも良い感じでした!

 先日、ご近所の団地に住んでいるお年寄りが慈雲寺を訪ねてくださいました。Aさんは、来月から施設に入ることになったのだけれど、部屋が狭く、仏壇を置く余裕がないので、仏壇のお性根を抜いて廃棄処分にしたいとのことでした。そして、仏壇の中に祀られていたお位牌をどうすべきかという相談です。

 一番良い解決策としてお勧めしたのは、大きな仏壇やお位牌を置く余裕がないのなら、とてもコンパクトなA4サイズぐらいの小さなお仏壇やそれに合った小さな仏像やお位牌もあるので、サイズダウンしたものを施設に持っていくことです。

 小さなお位牌だけを持って行くということもできますが、私は位牌だけというのは、あまりお勧めしたくありません。仏壇はあくまでも、仏様(仏像や名号の掛け軸など)をお祀りする「聖なる場」です。そこに亡くなられた方の位牌を置き、極楽で阿弥陀様と共に修行をしているご先祖を偲ぶのが本来のありようです。

 位牌の「収納場所」というのは、二次的、三次的な目的です。

 

 阿弥陀さまやお釈迦様などの小さな仏像を納める小型の厨子とご先祖の戒名を書いた過去帳なら、場所は小さくて十分ですし、「聖なる場所」としての意義もかなえられます。

 日々の暮らしの中で、「ここだけは特別」とういう場所を持つことは心の余裕に大きな影響を及ぼします。その場を清め、美しい花を飾り・・・静かに祈る時間を持つことは、穏やかな日々の大切な糧になることでしょう。

 

 もし、どうしても、そのような「聖なる場所」を確保できないなら、どうぞ慈雲寺にご相談ください。喜んで、お位牌をお預かりします。

承認願望地獄 Part3

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ローマの動物園で見た、地元の狼。カナダで見た北極狼とはずいぶん違う印象

 慈雲寺は一寄進で建立されたお寺なので、伝統的な意味での檀家はゼロ。さまざまなご縁で葬儀を頼まれることはあるのですが、年に数回あるかないか・・・・だったのですが、今年は毎月のようにご縁を結んでくださる方があります。

 しかし、人間の死という大切な場で大きな役割を担うというのは、僧侶として未熟な私にとって、さまざまな意味で心と体に影響があります。葬儀での法話は、佛縁を育む最も大切な機会ですし、見送る縁者へのなぐさめとなるものでなければなりません。なかなか十分な内容に到達できないので、いつも反省ばかりで、数日は心身共にすっかり打ちのめされてしまいます。文字通り、へたばってました・・・

 

 さて、承認願望についての続きです。

 私は、励ましの言葉をかけたり、褒めたりすることを不要だと言っているのではありません。むしろ、日本人はもっともっと、言葉にして褒めたり、励ましたりすべきだと思っています。

 カナダの人の多くは、会ったときにすぐに何かコメントをしてきます。相手の服装だったり、表情だったり・・・ともかく、何か褒めようと「手ぐすねを引いている」感じです。これはけして無闇なお追従やお世辞なのではなく、「私はあなたのことを見ていますよ。ちゃんと関心を持っていますよ」ということを示す行為だと思います。

 相手に関心を持ち、相手の言葉や行動に興味を示すことは、「承認」の第一歩です。

 

 しかし、中身のない空虚な「賞賛」や「承認」を集めても、結局むなしさは深くなっていくばかりでしょう。

 どれだけ多くの人に承認されたかだけを喜んでも、いつかむなしくなってしまうでしょう。誰に認められ、褒められたかが問題だし、その「誰」と自分との間に信頼関係が確立していればこそ、その承認は実のあるものになると思います。

 さらには、何を褒められ、認められたのかという「内容の深さ」も問題ですね。

 信頼や尊敬できる人との豊かな関係性の上にあってこその「承認」や「賞賛」が本当の喜びをもたらしてくれるのではないかなぁ・・・・

 尊敬できる友人、家族から認められ、褒められるのは嬉しい。でも、本当の友人や家族なら、「あなたがあなたであるだけで十分」「生きていてくれるだけで嬉しい」はずだから、承認をあえて求めなくても大丈夫ですよね。

 

 阿弥陀様は何の条件もつけずに全ての衆生を極楽へ迎えとってくれますよ。阿弥陀様に願われている身の上だと知れば、それ以上の承認はすべて「おまけ」です。

 

「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」と「尼僧と学ぶやさしい仏教入門講座」のお知らせ

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ローマの街角でみた花屋さんの店先です。

 国連の世界観光機関のお仕事をいただいたことがあって、ローマに行った時の写真が出てきました。もう遥か彼方のことになってしまい、ちょっと哀しい・・・・

 

 あ、こんなことでしみじみしている場合ではありませんでした。20日に緊急事態宣言が解除されたらの話ですが、6月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行うことにしました。

 慈雲寺には公共交通機関を使っておいで下さるようにお願いしているので、コロナの問題が沈静化するまで、思い切ってすべての行事をとりやめるべきか、いや仏様の教えを伝えるのは「不要不急」ではなく、こんな時だからこそ大事だろうと思ったり・・・

いろいろ悩んだのですが・・・・・・

 

6月27日 10時より慈雲寺において行います。テーマは五月の会の時に行う予定だった「埋葬されることの意義と墓地」です。
 

 埋葬の歴史や意義、日本人の暮らしや信仰にお墓がどのような意味を持っているのかについて、あらためてご一緒に考えてみましょう。講座という名前はついていますが、どなたにもわかりやすいお話を心がけています。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 

◎現在、鳴海の中日文化センターで毎月第二日曜に行っている「尼僧と学ぶやさしい仏教入門講座」は、7月からも継続して行うことになりました。テーマは大乗仏教、とりわけ浄土教の発生と発達についてお話したいと思います。お問い合わせは0120-538-763へどうぞ。

 慈雲寺でのお話の会に比べるとやや硬い内容ですが、どなたでもお気軽にご参加いただけます。仏教の思想の歴史や広がりと系統的にお話したいと思っています。なお、4月からの講座を受講していない方でも、違和感なく聞いていただける内容です。

承認願望地獄 Part2

 

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ローマの動物園で見たカバ。イタリアに移住してすっかりイタリアン風ノホホンになってる様子。

 夜明け前から天井を走り回るネズミ!冬の間は足音が聞こえなかったので、ネズミにも見捨てられたか・・・と、貧乏寺を嘆いていたのですが、戻って来たら来たで悩ましい。勝手なものです。

 さて、このところ承認願望について考えていて、前回のエントリーでは、他からの承認ばかり求めていても、本当の安心や幸せは得られないのでは?と書きました。おいしそうな料理の写真を撮っても、インスタ映えばかり気にしていると、肝心の料理は冷めてしまって、本当のおいしさを味わえない・・・・空しい承認はかえって寂しさしかもたらさないのでは?・・・と軽く(?)問いかけたつもりだったのですが、いつもするどいスマッシュを放ってくださるももはなさんが、↓のようなコメントを書いてくださいました。

 

承認願望や要求を放棄すると、自己満足地獄に陥るのではありませんか?
特に住職の様な「僧侶」では、信者の上に鎮座する悪魔になるのではありませんか?

自分の背中に少しだけ過重をかける軽い承認願望は必要では有りませんか?

それに軽い承認願望が達成される事で、また頑張ろうと言う糧になるのでは有りませんか?

この承認願望や要求は「足りるを知る」同様、私の様な商人の端くれから、1年で何兆円と利益を上げ、何十万人の社員達やその家族を養う大企業の社長まで、

札束と言う武器を手に戦う自由主義社会の商人としての在り方や、存在する意義の根幹に関する最重要な件です。

胸がすくスッキリした御教導をお願い致します。

 

「スッキリした御教導」という言葉にすっかりビビッてしまい、しばらくボンヤリしていました。

 すると、昨日、ある方の法事でお目にかかった僧侶の方とお話していて、偶然承認願望の話になりました。S上人は、私がさまざまな面で教えをいただいている方です。上人は日ごろから、「世の中の流行とか、空気とか、政治とか、そうしたことが判断の基準になるのではなく、それが仏の教えに沿っているかどうかだけが大事」と言っておられますが、その時も「僕には承認願望はないなぁ・・・・」とあっさり。

 ほんとかいな?という心の声が思わず顔に出てしまいました。「承認願望が強い人は、無条件で愛された経験が少ないのではないかなぁ。阿弥陀様は何の条件も付けずに私たちを受け入れてくれているのにね」とニコニコ。

 でも、そのすぐ後に、「この前、娘に『うちの子はどうしてこんなに良い子なんだろう』って言ったら、娘が『親の育て方が良いんじゃない』って言われたよ」とまたニコニコ。

 おいおい、それって「承認」を大喜びしてませんかね・・・

 というわけで、まだまだ「御教導」まで道遠しです(つづく)「

承認願望地獄 part1

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インドのニューデリーのホテルで見た「いけばな」です

 このブログには、管理者である私だけが閲覧できるいくつかの機能があります。そのひとつが「アクセス解析」。一日何人の方が閲覧したかとか、どのテーマのページを見て下さったかがわかるようになっています。

 このブログは、慈雲寺での行事のお知らせや、自分が今気になっていることの心覚えに始めたものですから、閲覧数が多くても少なくても、あまり関係ないはずなのですが・・・このところ、「承認願望」をテーマにした本を読んでいて、自分もこの「閲覧数」を結構気にしているのだと改めて気がつきました。

 私は参加していませんが、ツイッターやユーチューブで「いいね」の数をとても気にする人が多いとか、SNSでつながっている「友達」の数に悩んだりしている人が多いそうです。

 人は誰でも「承認願望」があるものです。家族から「人様に恥ずかしくないように」とか「人様から認められる人になりなさい」と言われて育つ人も少なくないでしょう。他人から認めてもらうことで、自分の価値が決まっていく・・・・学歴、家柄、家の経済状態、容姿など、「わかりやすい承認基準」をつぎつぎクリアして、多くの承認を得ることで、安心する・・・・

 という風には単純にいかないのが人生です。「わかりやすい承認基準」のポイントは高いはずなのに、友達が少ない・・・・。そんな悩みの人に話しを聞いてみると、友達との関係を育むより、「多くの人に愛される自分」、「多くの人に承認される自分」ばかり気にして悩んでいるのを感じることが少なくありません。

 「いいね」が欲しくて、インスタ映えする食べ物の写真を撮るのに夢中になって、実際に食べるときには、すっかり料理は冷めてしまっているとか・・・・肝心な食を楽しむことより、他人からの「うらやましい」を求めてしまう・・・

 こうした承認願望の果てに待っているのは、孤独という地獄ではないでしょうか?