慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

布教師の研修会で和歌山へ

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 僧侶にとって布教は最も大切な役割の一つです。この布教の道を深く学びたいと志す僧侶は「布教師」と呼ばれています。私もおぼつかないながら、この布教師の道を進んでいきたいと思っています。布教師はさまざまな勉強会や研修会があるのですが、先日は一泊二日の日程で和歌山市へ行ってきました。全国から布教師が集まり、年に一度の総会と合同研修会です。

 毎回、布教の基礎を学びなおしたり、布教に取り入れるべき「今を生きる」人々の話題を取り上げて研修します。今回は、東日本大震災の後、被災者の声に耳を傾ける「傾聴ボランティア」を続けていらっしゃる禅宗僧侶の金田師から活動の現況をお話しいただきました。

 震災が起きてから、すでに5年半以上の時が流れています。建物の復興は進んでいても、人の心、愛する家族や友人を失った心の癒しは簡単には進まないでしょう。

 宗教者として、「なぜ家族が死に、なぜ私が生き残ったのか?」という問いに向かい合う重みが金田師のお話しからひしひしと伝わってきます。

 特に私の心に残ったのは、傾聴ボランティアをしていくうえで、その土地の風土や習慣を知り、「言葉」が語れることが大事という金田師のお話しでした。確かに、その土地の言葉でコミュニケーションできるかどうかは、本当に大事ですよね。特に、自分の心の奥の哀しみは自分の言葉でなければ語りつくせません。

 では、東北から遠く離れた私たちは、どのような形でサポートしていくことが大切なのでしょうか?金田師は「まずは、自分たちの暮らしている場で、しっかりと布教をなさってください」とおっしゃっていました。考えさせられる言葉です。

 私は、その土地の言葉にとても興味があります。本山で暮らしていたときは、京都(といってもその郊外の乙訓の言葉)弁を習って、使ってみたくて仕方がありませんでした。カナダで暮らすようになって、英語を学ぶときも、同じです。耳に入ってきた言葉に興味が出て、それを使ってみたい!という思いが習得につながっていったのだと思います。

 桶狭間の言葉はどうでしょう?ここは今は名古屋市の中ですが、もともとは知多半島の付け根。知多は三河言葉だと聞いています。みなさんが、地元の言葉で気軽に話しかけてくださるようになったら、私がここに受け入れられたということなのでしょう。

◎今日の写真は、カナダのワインの産地、オカナガンのブドウ畑に植えられていたバラです。

バンクーバーの日本人女性殺人事件と「留学」

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 私は二年半前に慈雲寺に赴任する前、数十年間カナダのバンクーバーで暮らしていました。今回の殺人事件をとてもいたましい気持ちで受け止めています。亡くなられた古川さんの遺体が遺棄されていた場所は、賑やかな通りに面していますが、今は空き家になっている古い邸宅ですから、少し奥に入っただけで人の目を避けられるだろうし、彼女が悲鳴を上げても気が付く人はいなかったでしょう。

 今は事件の内容も十分に判明していませんから、新聞記事だけで判断するのはむずかしく思います。しかし、「英語を学ぶクラブ」を通して被疑者と知り合ったという記事には、いろいろと考えさせれています。

 私は英語を学ぶのであれば、「留学」がベストの方法とは考えていません。英語圏で暮らせば魔法のように英語がうまくなるわけはないと思うからです。自分たちの日常生活を考えてみれば、一日のうちにどれだけのことを話しているでしょうか?「風呂、めし、寝る」ではありませんが、日常会話の内容など、それほど変化に富んでいるわけではありません。使う言葉も豊富なわけではないでしょう。

 語彙を増やすなら本を読んだ方がよっぽど身につくでしょうし、ビジネスや学校での専門的な勉強を通して学ぶことによってより豊かになっていくはずです。

 もちろん、学んだことを実際に口に出して会話をすることは大切でしょう。しかし、少しぐらい「流暢」に話せることよりも、とつとつとしても内容が濃く、語彙が豊富な方が大事だと思うのです。これは自分への反省でもあります。もっともっと、きちんと文法を学び、語彙を増やし、カナダの歴史や文化も深く学ぶべきだったと悔やんでいるのです。

 また、バンクーバーの治安について心配している方がいますが、確かに日本以上に治安の良いところは世界ではあまりないでしょう。しかし、原則は「日本でしないようなことはしない」ということだけです。深夜の一人歩き、麻薬に手を出す、よく知らない人についていくなどなど・・・日本でしないなら、外国でもしないのが良いに決まってているからです。

 もちろん、今回の被害者の方がどんな暮らしをしていたのかわかりません。写真からは聡明で努力家という感じを受けましたが・・・ご冥福をお祈りしています。

◎今日の写真はバンクーバーで見たバラの花です。今頃は秋咲きのバラがあちこちに咲いていることでしょう。

 

 

BBC制作のドラマに登場した親子関係

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 まだ風邪が治りません。いつもの怠け者がさらにぐずぐずに・・・そんなときほどお客様がおいでになるので、とほほ・・・と、思いつつも、参拝にいらして庫裏に声をかけていただくのは、本当にうれしい。風邪をうつしてしまわないように、しなければ・・・

 そんなグズグズ生活のため、今日は英国のBBCが制作したテレビドラマを見てしまいました。「刑事ヴァランダー」はベストセラーの小説のテレビ化。設定はスェーデンの小都市です。英国の町に設定しなおさないところがおもしろいですね。

 連続殺人事件が次々と起こるのですが、全編に流れているのは主役のヴァランダーが抱える家族問題。父親は画家で、やや痴呆が始まっている。いやがる父を施設に入れるかどうか・・・自分の方は妻と別居中。お互いに恋人ができたら離婚という約束だが、妻の方はすでに相手がいるらしい。一人娘との関係も微妙・・・と、「ああ、日本でもこういうことに悩んでいる人は多いだろうなぁ・・・」と思わせる状況がたくさん出てきます。

 刑事が事件を解決していく手順も細かくて、説得力あり、出演している俳優がまた、みんなうまい!。シェークスピアで鍛えられてるんだろうなぁ・・・

 「家族」というのは、なかなか難しいものです。愛し合い、理解しあえるのが当然と思っているので、少しの齟齬や誤解がどんどん傷を広げていってしまう・・・そんなときこそ、阿弥陀様のことを思い出してください。阿弥陀様は私たちがたとえどんな状況にあろうとも、どんな状態であろうとも、お見捨てにはなりません。やさしいお慈悲で抱き留めてくださるのです。

 誰も味方がいない、家族でさえ自分を見捨てると思ったときこそ、お寺にいらしてください。阿弥陀様はあなたの後ろをいつも追い続けていてくださっていると気が付くことでしょう。

◎今日の写真は北米の東端にあるニューファンドランド島の小さな港の風景です。

 

『般若心経』にチャレンジ・・・・・う~ん・・・困った

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 10月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」では、『般若心経』を取り上げることにしました。『般若心経』について知りたいという希望をおっしゃる方が増えてきたからですが・・・・そう簡単にはいかないですよね。

 『般若心経』は、六百巻もの膨大な『大般若波羅蜜経』に説かれた教えの、いはばエッセンス。これを簡単に説明するのは至難のわざです。このお経はさまざまの宗派で読誦されていますから、多宗派の集まる会などで称えるのにはとても便利。ま、浄土真宗の人は避けるようですが・・・

 三百字にも満たない短さですし、称えたときの「音」もとても神秘的です。このお経が多くの人に受け入れられ、写経され、解説本が何百冊(もっとかも?)も出版されてきたのも納得がいきます。

 しかし、きちんと皆さんにお話しする力が私にあるかどうかとても不安です。第一、ちゃんと読経できるかも自信ないほど。ほとんど僧侶は、このお経を暗記していて、かなりのスピードで称えることができます。でも、私は「間違ったら恥ずかしい。」という気持ちが強すぎて、とても暗称することはできません。

 もちろん、お経は「おまじない」ではありませんから、暗記をして素早く読むことに価値があるわけではありません。むしろ、きちんと読誦する、意味をかみしめながら読誦するのが本当だと思うのですが・・・・

 でもなぁ・・・・お釈迦さまの直弟子や初期の僧侶たちは、皆、お釈迦さまの言葉を暗唱して心に刻んでいたのですからね。お経を暗記するというのはとても大事な修行なのでは。う~ん・・・困ったなぁ。

 先日、ダライラマ猊下が『般若心経』についてお説きになっているDVDを入手したので、今夜はそれをゆっくり見てみようと思います。

◎今日の写真はカナダで見た道路標識。牛より大きなヘラジカと衝突したら、車は大破してしまいますよね。

ケホケホケホ・・・・・何かが飛んでいる!

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 昨夜から軽い喘息の症状が出ています。いつも、お寺の奥に引っ込んでいるのに、大阪のような都会に出て行ったからかしらん?

 私の喘息のアレルゲンは春は杉花粉のようですが、今はなんだろう?ハウスダストに弱いけれど、必ずしも「掃除が行き届いているか、いないか」の問題ではないようです。昔、お茶を習っていたとき、いつもとてもきれいに掃除をしていらっしゃる先生のお茶室で発作・・・いくらきれいに掃除しても、ハウスダストがゼロになるわけではないから、その組み合わせが問題なのでしょう。

 いつもなら、お寺の埃だらけの蔵や倉庫に入っても大丈夫。慈雲寺の埃にはアレルギーではなかったようです。しかし、今日は何かなぁ。なんだか少し熱っぽい気もするし・・・・

 もう、本堂の扉を閉めて、横になった方がよさそうです・・・・あ・・・・今、ネットで「フリンジ」というアメリカのTV番組を見ています。一応、ボストンが舞台となっていますが、撮影の多くはバンクーバーでしているみたい。少しホームシックなのかも?昔から、何かを我慢しすぎるとケホケホケホ咳が出てたしなぁ・・・・

 さて、本堂の扉を閉めに行きましょう。

◎今日の写真はカナダのニューファンドランド島で見た野草です。

すれ違ったのは坂上田村麻呂の御子孫?!

f:id:jiunji:20160927224956j:plain   半年ほど前から、毎月、関西地方に取材に行かせていただいています。旅行ライターになってから数十年になりますが、ほとんどの取材は北米。日本の国内の記事を書いたのは数えるほどです。

 京都の本山に滞在しているときは、時々外出していましたが、その範囲は京都市内程度でした。関西のほとんどの場所は私にとって「未知のエリア」。それだけに、毎月の関西出張は楽しいものです。

 今回は大阪市平野区へ行ってきました。平野区というところに足を踏み入れたのは、おそらく生まれて初めて!平安時代からつづく豊かな歴史が街のあちこちに残されているようです。詳しくは記事に書いてからですが、今日訪れたある神社は坂上田村麻呂の一族と深い関係がある所。可愛らしいお子さんを連れた上品なお年寄りとすれ違ったのですが、なんとその方があの征夷大将軍の御子孫だと教えていただきました。

 平野区は第二次大戦中の大規模な空襲を免れた建物も多く、長くこの地域に住んでいる方もたくさんいらっしゃるのでしょう。1000年以上も前から続く住民もいるということですよね。なんだか不思議な感動でした。

 慈雲寺のある桶狭間周辺も、南北朝時代からここに住んでいる一族の子孫の方がたくさんいらっしゃいます。ご縁があって、「生きた歴史」の続く場所に住むことができるのを改めて嬉しく思った一日でした。

◎今日の写真は一万年前に氷河が作ったニューファンドランドの風景です。膨大な力で大地を削りながら、氷河が移動して行ったあとに、切り立った崖の深いフィヨルドが残されたのですね。

 

お位牌やお仏壇、お墓は極楽を見渡す「窓」

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 僧侶は読経や儀式に関する研究をする法事師、お説教を通じての布教を専門にする説教師など、いくつかの専門分野に分かれています。もちろん、すべての分野にバランスよく通じているのが一番良いのですが、やはり向き不向きがあります。私は説教師の道を少しずつですが歩き始めています。

 そのため、ほかの僧侶の方の法話やお説教を聞かせていただく機会があれば、宗派にかかわらず出かけていきます。毎週火曜に中日新聞の文化欄には、そうした宗教関連の行事案内が出ています。

 さて、昨日は知人の僧侶がお説教をするというので、電車に乗って出かけました。以前からの知り合いですが、お説教を聞くのは初めて。とてもまじめな青年僧なので、楽しみにしました。

 その青年僧はゆっくりとした口調で、今まで家族にも語ったことがないという辛い経験を話してくれました。東日本大震災の時に、その青年僧の友人が津波に流されて亡くなったというのです。その友人は、いったん家族を避難所に連れて行ったあと、自宅の仏壇にあったお位牌を取りに行って、津波に巻き込まれたらしいのです。

 青年僧は、その友人にお位牌の大切さを説き、それ以来、友人は亡くなられた人の魂が位牌の中にこもっているものとして大切にしてきました。それで、どうしても位牌を避難させたかったのでしょう。青年僧は、自分が友人に説いたことが、友人の死につながったのではと、ずいぶん苦しんだそうです。

 この話は、私の心にも重いものを残しました。仏壇やお位牌、お墓、そしてお寺を守っていくことの大切さを私たち僧侶はいつもみなさんに説いています。自分の身に危険が迫っているときに、「お位牌を流すわけにはいかない!」と思った信仰深い青年の気持ちに、私たちはどう答えれば良いのでしょうか?難しい問題です。

 私はお位牌や仏壇、お墓は「窓」のようなものだと思っています。仏さまも、お浄土で菩薩となっているご先祖も、皆、神通力がありますから、私たちがその人を偲ぶとき、必ずその思いに寄り添ってくだざいます。ですから、場所や物は本質的には関係がないのです。どこでも太陽の光が届くようなものです。

 しかし、しばしば私たちの心は四方を壁で覆われた部屋の中に閉じこもってしまいます。外にはきれいな青空が広がり、お日様の光が満ちているのに、暗い、暗いと悲しんでいるようなものです。

 そんなとき、カーテンを開け、窓を大きく開けば、光は部屋の中いっぱいに入ってきます。お仏壇をきれいにし、お位牌を大切にしてお供えをすることや、お墓にお参りする、本堂にお参りして阿弥陀様に手を合わせる・・・・これらのことは、私たちが散乱しがちな心を落ち着け、思いをこめる手段です。それは、カーテンを開け、窓を開けるようなものなのです。

 仏壇に手を合わせ、仏さまを拝み、お位牌に手を合わせて祖先の御恩を偲ぶとき、心が落ち着き、穏やかな気持ちになることでしょう。お寺の本堂で静かに手を合わせるのも生活の大切な一部にしたいものです。

 しかし、それはあくまでも「窓」。本当の大空はその向こうにあることを忘れないでください。窓ガラスを磨けば、空もよく見えますが、ガラス磨きばかりに夢中になっていると、せっかく美しい雲が流れているのを見落としてしまいます。

 本当に大切なものは何なのか、それを考えていくのが仏教徒の生き方です。

◎今日の写真はカナダのニューファンドランド島の森の中で見た花です。なんだか幻のような透明感がありました。