僧侶にとって布教は最も大切な役割の一つです。この布教の道を深く学びたいと志す僧侶は「布教師」と呼ばれています。私もおぼつかないながら、この布教師の道を進んでいきたいと思っています。布教師はさまざまな勉強会や研修会があるのですが、先日は一泊二日の日程で和歌山市へ行ってきました。全国から布教師が集まり、年に一度の総会と合同研修会です。
毎回、布教の基礎を学びなおしたり、布教に取り入れるべき「今を生きる」人々の話題を取り上げて研修します。今回は、東日本大震災の後、被災者の声に耳を傾ける「傾聴ボランティア」を続けていらっしゃる禅宗僧侶の金田師から活動の現況をお話しいただきました。
震災が起きてから、すでに5年半以上の時が流れています。建物の復興は進んでいても、人の心、愛する家族や友人を失った心の癒しは簡単には進まないでしょう。
宗教者として、「なぜ家族が死に、なぜ私が生き残ったのか?」という問いに向かい合う重みが金田師のお話しからひしひしと伝わってきます。
特に私の心に残ったのは、傾聴ボランティアをしていくうえで、その土地の風土や習慣を知り、「言葉」が語れることが大事という金田師のお話しでした。確かに、その土地の言葉でコミュニケーションできるかどうかは、本当に大事ですよね。特に、自分の心の奥の哀しみは自分の言葉でなければ語りつくせません。
では、東北から遠く離れた私たちは、どのような形でサポートしていくことが大切なのでしょうか?金田師は「まずは、自分たちの暮らしている場で、しっかりと布教をなさってください」とおっしゃっていました。考えさせられる言葉です。
私は、その土地の言葉にとても興味があります。本山で暮らしていたときは、京都(といってもその郊外の乙訓の言葉)弁を習って、使ってみたくて仕方がありませんでした。カナダで暮らすようになって、英語を学ぶときも、同じです。耳に入ってきた言葉に興味が出て、それを使ってみたい!という思いが習得につながっていったのだと思います。
桶狭間の言葉はどうでしょう?ここは今は名古屋市の中ですが、もともとは知多半島の付け根。知多は三河言葉だと聞いています。みなさんが、地元の言葉で気軽に話しかけてくださるようになったら、私がここに受け入れられたということなのでしょう。
◎今日の写真は、カナダのワインの産地、オカナガンのブドウ畑に植えられていたバラです。