慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

12月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は12月23日(日)10時より行います。テーマは「戒名」です。戒名の本来の意味、理想的な授かり方をご一緒に学んでみましょう。

今日の読書:古川順弘『神と仏の明治維新』

 

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 山茶花が咲き始めました。花の少ない冬に咲いて、私たちを楽しませてくれる山茶花や椿は大好きです。慈雲寺の内庭にも数本あります。楽しみ、楽しみ。

 さて、ここ数年、私の中では「廃仏毀釈」がブーム(っていうのは変な表現ですね)。関連のある本が目に付くと、セッセと入手しています。

 一昨日、ブックオフをウロウロしていたら、古川順弘の『神と仏の明治維新』という本が目に入りました。今年の10月19日に発行された本のようですが、もうブックオフに半額で売りに出てる・・・

 アマゾンでは、まだ古書の出品はないようですし、なぜか6383円なんて値段で出品している書店がありました。この値段設定はなぜ????

 あ、そんなことはどうでもいいですね。

 この本は明治維新を「神仏分離」という、日本史上まれに見る大宗教改革の視点から見たものです。明治維新を「宗教革命」と位置付けて見るというのは、とても興味深いことです。確かに、「王政復古」は、祭祀と政治が融合していた神武天皇(実在していたと仮定して)の時代を理想としていたわけですから、明治維新祭政一致を目指す宗教改革だったと考えてもおかしくはないでしょう。

 この本は新書ですし、学術書というわけではないので、深みという面では物足りないところがたくさんあります。しかし、興福寺から日光東照宮まで、有名な社寺で何がおこったのかを具体的に紹介してあって、どんどん興味を惹かれていきます。

 さらに、新政府の「神仏分離令」と、各地で起こった「廃仏毀釈」の暴挙との関連についての説明が、とても分かりやすく、ようやく両者の関係の意味を理解する手がかりを得た気がしました。

 明治政府が、必ずしも「廃仏毀釈」を望んでいたのではないという古川氏の指摘や、浄土真宗の対応なども興味深いところです。

 今、仏教は危機に瀕しているといわれていますが、150年前にも、想像を絶する危機があったのだと、改めて考えさせられました。

◎今日の写真は、先日湯河原で見た山茶花です。

 

大好きだった郵便局が大変身していました!

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 私はほんの短い間ですが、「大手町のOL」だった時代があります。OLなんて言葉は、とっくの昔に死語かもしれませんね?でも、半世紀前(ひぇ~~~)は、「大手町のOL」はちょっとしたステータスだったのです。ま、そう思っていたのは、大手町で働いていた私たちだけかもしれませんが・・・

 私はさまざまな面でOLとして、ほぼ無能に近かったと思います。あの当時の上司や同僚には、本当に申し訳なく思っているほどです。しかし、外にお使いに行くのは大得意で、どこへでも気軽に早足で出かけていきました。

 最も好きなお使い先は、東京駅前の中央郵便局です。本当は大手町にも大きな郵便局がありましたから、何もわざわざ東京駅まで行かなくても良いのですが、お昼の休憩時間を使ってでも、このレトロな雰囲気の郵便局に行くのが大好き。東京駅の中を通るのも大好きでした。

 先日、名古屋で急ぎの封書をポストに入れ忘れ、新幹線を降りてから慌てて、駅前の懐かしい中央郵便局へ行ってみました。

 おおおお!外観はあまり変わっていないのに、中はすっかり別の建物に変身していました。中央の巨大な吹き抜けには、雪に覆われた巨大なツリーが立っていました。

 桶狭間での暮らしは、幸せなものですが、たまには都会に出て、こんな「別世界」に立ってみたいと心から思いました。空からゆきが降っているようなライティングも素敵。

 大手町や丸の内で過ごした数年がとても懐かしく思えました。



兄弟弟子に囲まれる喜び

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 私を僧侶にしてくださった、最初の師僧である橋本上人は、弟子を二十人以上育てた方です。自分の子供を弟子としてお寺を継がせるのが大半の、今の仏教界において、在家からこれほど多くの出家者を育てた方は稀有の存在と言ってよいでしょう。

 弟子を育てるのは、精神的にも経済的にも大きな犠牲が必要だからです。

 私はこの橋本上人の13番目の弟子です。先日、その兄弟子との会食会が開かれました。どの兄弟子も、皆、それぞれの分野で僧侶として、説教師として、学僧として優れた方です。本山の行政面での有力者になられている方もいます。

 多くの兄弟子たちに比べると、なんとも非力な私ですが・・・・兄弟でこうして仲良く食事ができるのは嬉しい。話題は宗門の将来、お寺の将来、布教の話が続きます。

 師僧が、こんな風に遠慮なく語り合える人たちに深いご縁を作って下さったと思うと、自分がどれほど恵まれているのかしみじみと感じます。

 このご縁を次の世代につなげていくのも、大切なことです。自分に何ができるのか、じっくり考えてみたい・・・と、思っていたら、兄弟子の一人から「考えている暇があったら、まず境内や本堂の掃除しなさい。磨いている間に見えてくるよ。掃除の行き届いていないお寺にお参りに来たくならないでしょう?」と言われてしまいました。

 おっしゃる通りですが、今日もバタバタして、山門前を掃くこともできませんでした。反省・・・・

◎今日の写真は兵庫県出石焼きの土瓶についていた犬(獅子かな?)です。

 

冬の雷鳴は哀しい

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 先ほど、台所で夕食を作っていたら雷が鳴りだしました。私は普段は雷を怖いとは思わないし、砂漠や大平原で見る稲妻をとても美しいと思います。

 でも、今日の雷鳴はダメでした・・・こんな風に冬の雷鳴を聞いたときの哀しい体験がいっぺんに胸に押し寄せてきました。

 ああ・・・もう数十年も昔のことなのに、忘れてはいないんだなぁ。あの時も、こんな風に食事を作りながら、窓から稲妻をみていたなぁ・・・

 大きなため息をいくつもついて、食欲もなくなって・・・

 でも、雷が遠ざかったら、哀しい気持ちとは別に、この数十年、自分がどれほど多くの人たちに支えられ、助けられてきたのかも思い出しました。今、ここに生きていられることだけでも、十分以上に幸せです。阿弥陀様と一緒に暮らせるのですからなおさらです。

 でもね。やっぱり冬の雷鳴は嫌いです。

 あ、今日はおいしそうな生カステラをいただいたんだったけ。甘いものでも食べて、ちょっと元気を出しましょう。

◎今日の写真は、ネットの無料画像からお借りしました。どこの町でしょうね?

 

阿弥陀様のお慈悲を「大船」に例える

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 私たちは輪廻を繰り返している間にさまざまな業を積み重ねています。善業も少しはあるでしょうが、重い石のように悪業を背負っているのです。

 重い石のような私たちは、もちろん河の流れに浮かぶことはできないし、泳いで彼岸に渡ることもできません。

 しかし・・・・先日、ある方のお説教を聞きに行って、お説教師の方が興味深い譬えをお話してくださいました。

 「安心してねというときに、『大船にのった気持ちで』と良く言うでしょう?阿弥陀様のお救いはこの大きな船のようなものなのです。」

 石のように重い業を背負った私たちは、自力で水面に浮かぶことはほぼ不可能です。台風でも来て、向こう岸に押し流されるということはあるかもしれませんから、自力を否定するわけにはいかないでしょう。しかし、それでも石が自分で泳いだわけではない。

 そんな私たちを憐れみ、私たちに代わって必要なすべての修行、すべての懺悔をしてくださったのが法蔵菩薩です。そして、必要な修行、懺悔が完成したとき、菩薩は阿弥陀如来となられ、同時にすべての衆生は救いの大きな船に乗せてもらったのです。石も泳ぎを知らない動物も、川の流れに逆らえない小さな虫もすべて、大船に乗せていただいているのです。

 法蔵菩薩は全ての衆生を救わなければ、仏にはならないと誓っていました。その法蔵菩薩阿弥陀仏になられたということは、すべての衆生は救われているということにほかなりません。

 衆生の往生が完成したからこそ、法蔵菩薩阿弥陀仏になられたのです。

 しかし、残念なことに私たちの深い業は、そのことに気づかない。阿弥陀仏の救いに気が付かないと、船に乗せていただいているのに、再び輪廻の中に流れて行ってしまうというわけです。

 法然源空上人(法然上人)の高弟だった証空上人は、「私たちは、阿弥陀仏の願い、お慈悲のことを聞かせていただくだけで良い。」と教えて下さっています。

「ああ・・・そうだったのか。もう大船に乗っているのか。嬉しいなぁ・・・」と思ったとき、口からこぼれ出るのが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

 今日は一日、「大船に乗った気持ち」でゆったりお過ごしください。

◎今日の写真は、夏に奈良の国立博物館で見た蓮の花です。極楽にもたくさん蓮が咲いているそうですよ。

 

 

「また次の機会」はないと覚悟すべき

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 早朝の電話は恩師の急死の知らせでした。R師は、私が本山で修行をしていた時代の恩師です。講義を受けていたときには、私はずいぶんと生意気で反抗的な生徒でしたが、その後、不思議なご縁で近しくさせていただいていました。

 本山で行われた幾つかのプロジェクトに私を呼んで下さったこともあり、宗学の師以上にお世話になった方です。

 背も高く、骨格もがっしりしていて山登りが趣味。70歳を超えたばかりでしたから、まだまだ長生きしていただけるとばかり思っていました。

 しかし、人の命はまさに無常。いつ今生の別れがやってくるかわかりません。僧侶ですから、命の危うさ、もろさについては覚悟しているつもりだったのですが・・・

 深く後悔しているのは、今年の夏、R師が特別講義をなさる機会がありました。当日、私は朝からバタバタして、とうとうその講義の時間に間に合いませんでした。会場のお寺に近づくと、ちょうどR師が門を出てくるところ。

 私は恥ずかしくて、きちんとご挨拶もできないありさまでした。

 結局、それが恩師との最後の会話になってしまったのです。本当に無念で哀しい。

 人と出会うとき、「また次の機会にゆっくりお話すればいいや・・・」と思って折角の縁をないがしろにしてしまってはいけないと、お釈迦様はお教え下さっています。

 まず、朝、家を出るときの家族への挨拶を大切にしたいものです。腹を立てて、ぞんざいな言葉をかけたりしていませんか?慌てて飛び出して、「行ってきます!」も言わずに家を出ていませんか?

  友達と会うときも、心をこめて会話していますか?

 「一期一会」という言葉を今、改めてかみしめています。

◎今日の写真は大阪の法善寺で見たお釈迦様の石板です。「二河白道の教え」をモチーフにしたものでしょう。

 

 

アイテム探しゲームと阿弥陀様の救い

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 以前、「インターネットゲームを始めましたが、課金してまで勝ちたい気持ちが解らん。」というお話を書きました。当時、よくやっていたのは、「パイレーツ・アンド・パールズ」というゲームなのですが、それはすでに私の中ではブーム終了しました。

 最近、よく見ているのは「アイテム探しゲーム」と呼ばれるものの一つです。骨とう品店やお城の倉庫のように、さまざまなものが置かれている部屋から、指定された品物を見つけてクリックするという単純なゲームです。しかし、これがなかなか面白い。

 指定されているものは、置き方や色などで、周囲の品物や壁、床に巧妙に置かれています。

 隠されているわけではないところがミソ。

 いったん、その物に気が付けば、ちゃんと見えてくる。大きさも、けして小さくて見えないというわけではありません。例えば「扇子」というのが指定されているとすると、ほとんどの場合、扇子が二つ別々の場所に描かれているのです。

 物がどうしても見つからないとき、魔法のコンパスなどを使えば、探し物が見つかる可能性がグッと高まります。そういう魔法の道具は、時々無料で提供されます。いったん、それを使って安易に問題をクリアしてしまうと・・・・

 課金地獄がまっている?! というわけです。

 私は、このゲームをしながら、ときどき「阿弥陀様のお救いもこんなかんじかなぁ?」と思ってしまいます。かなり不謹慎な発想かも??

 つまり、阿弥陀様のお救いは必ずある。むしろ、私たちは阿弥陀仏の救いの中に生きている・・・でも、見えないんですね。そんなとき、阿弥陀仏がなぜ阿弥陀仏になられたのかという、「阿弥陀仏の因縁」を聞かせていただくだけで・・・・

 こちらからは、何も用意しないのに、まるで魔法のコンパスのように阿弥陀仏のお救いに気が付く。気が付いたら、あそこにも、ここにも・・・目の前に以前からちゃんとあることが見えてくる。

 う~~ん・・・やっぱり不適切な比喩かな?

 でも、聞かせてもらって、気づかせてもらえば・・・私の方からは何も用意しなくても、私たちはすでに阿弥陀仏の救いの中にあるのです。

 あ、なんだか、またゲームがしたくなってきました。

◎今日の写真は、有名な大阪の法善寺横丁のお不動さまです。お水をかけてお参りをするので、お不動さまのまわりは苔がびっしり。でも、「お不動さま」と教えていただけば、緑のかたまりが、ちゃんとお不動さまの姿に見えてきます。