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慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

6月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は6月18日10時より行います。テーマは「悔いを残さないお別れ」です。どなたでもお気軽にご参加ください。

来月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は6月18日(日曜)に行います。

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 今日は(あ、もう夜中を過ぎたので昨日ですね)、5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行いました。40名近くの方がおいで下さり、仏舎利の歴史や信仰についてお話しさせていただきました。名古屋へ赴任して3年以上になりましたが、仏舎利を祀っている日泰寺にまだお参りしていないのが、とても残念な気持ちになりました。暑くならないうちにぜひ参拝させていただきたいと思っています。

 さて、来月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、「悔いを残さないお別れ」と言うテーマでお話しさせていただこうと思っています。私事ですが、今月中旬、私は父がお浄土へ旅立つのを見送りました。臨終から今まで、日々、さまざまな思いが胸に積み重なっていきます。娘として、また僧侶として、この経験をどう受け止めるのか、まだ難しい状況です。

 仏教は「体験」の宗教です。生老病死という人間の命の現実とどう向き合うかが基本です。大切な人を見送るときの「心得」を仏教はどう教えているのか、御一緒に学んでいきましょう。

◎今日の写真は、カナダとアラスカの国境近くの山並みの夏景色です。

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」のお知らせと慈雲寺へのアクセス

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 5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は5月28日(日曜)10時より行います。

 テーマは「仏舎利とその信仰」です。仏舎利とは、お釈迦様のご遺骨のことです。お釈迦様が亡くなられた後、その御遺骨は細かく分骨され、さまざまな場所に運ばれました。仏舎利を祀った塔は、日本の五重塔やお塔婆の原型でもあります。

 仏舎利に対する篤い信仰は、やがて「仏舎利のようなもの」を大切にする信仰的伝統を育むようになりました。例えば翡翠石英の小さな粒を仏舎利の代替物として礼拝する慣習は、アジア各地で見ることができます。

 名古屋には、タイの国王から贈られた「仏舎利」を祀るため、日本の伝統仏教の宗派が協力して建てた日泰寺というお寺もあります。

 実は、最近、慈雲寺にも「仏舎利」が祀られていたことがわかりました。小さなガラスの容器に入っています。28日には、特別に御開帳し、近くで拝んでいただけますので、どうぞご縁を結んでください。

 講座にはどなたでもお気軽にご参加ください。

◎慈雲寺への公共交通によるアクセスのご案内
 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。日曜の9時台は二番乗り場から9時07分と36分に発車します。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。日曜は8時45分にバスが出ます。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は8時50分発があります。所要時間は約40分
●JRの大高駅から緑循環バスの名鉄有松行で郷前に行くことができます。日曜は8時44分と9時44分に出発します。9時台のバスですと10時の開始時間には少し遅れますが、あわてずにおいでください。
●また、同じ緑循環バスの名鉄有松行は南大高駅東にも停車します。9時9分発です。
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます

◎今日の写真は、車でアクセスできる北米最大級の氷河の一つ、サーモン氷河です。アラスカとカナダの国境近くにあります。

父を看取る

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 しばらく、このブログを更新していなかったので、「体調でも悪いのですか?」というメールを友人からいただきました。御心配をおかけしてすみません。

 実は、先週、父が亡くなりました。入院していたのは2週間ほどで、ほぼ最後まで意識があり、私たちの声も聞こえているようでした。喉に絡んだ痰を吸引するときに痛がった他は、痛みもないようで、父が望んだように生涯を終えることができました。

 父は30年前に献体を決めており、「葬儀もしない」という遺言が残されていました。

父は第二次世界大戦の時に、若い下級将校として戦場に行きました。「自分の命令で戦って死んだ人がいる。その人たちをジャングルに置いてきたのに、自分だけ葬式をしてもらうわけにはいかない。」と言っていました。父は最後まで自分を許さなかったのだと思います。

 また、父は歴史が好きで、家族で寺院や神社を訪ねることが多かったのですが、けして手を合わせようとはしませんでした。戦場で「神も仏もあるものか」という体験をしたからかもしれません。

 しかし、私が僧侶になることを決めたときは反対はしませんでした。ここに父の複雑な心境があると思います。

 私は僧侶で、説教師としての道を歩き始めています。自分の父にお念仏の教えを伝えられないことに深い哀しみと敗北感がありました。しかし、父がなくなる前夜、私は一人で父のそばで夜を明かすことができました。その時、耳元で阿弥陀様のお慈悲と救いの願いについて、ゆっくりと話しをすることができました。父の耳に届いたと思いたいです・・・・

 父の死で、私はさまざまなことを体験しました。この体験を十分に消化し、理解するまでには、まだまだ時間がかかりそうです。しばらく、ブログの更新が間遠になるかもしれませんが、必ず続けますので、またご訪問くださいませ。

◎今日の写真はカナダのBC州北部にあるベア氷河です。

生きる目的は思いやり - 利他という生き方

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今日のお釈迦さまのお言葉

 善いことをした人は、この世で喜び 来世で喜び 二つの世で喜ぶ

 自分の行いの清らかなことを見て 彼は喜び 彼は楽しむ (法句経より)

 

 ダライラマ猊下の本を読んでいると、しばしば出てくるのが「思いやり」という言葉です。猊下は「他の人に思いやりを持って接する、思いやりを持って行動することこそが、生きる目的だ。」とまでおっしゃっています。

 自分に優しくしてくれる人、自分に何らかの利益をもたらす人に思いやりを持つことは難しくないでしょう。しかし、ダライラマ猊下は「あなたの『敵』にも思いやりを持て」と教えてくださっています。これこそ、大乗仏教の根本的な姿勢である「利他」の生き方です。

 しかし、難しいですね・・・

 「善いおこない」というのは、思いやりの心から生まれてくる行動です。何が「善い行い」なのでしょう・・・ありがたいことに、私たち仏教徒には「お釈迦様」という素晴らしいお手本があります。お釈迦様の行動について説かれたお経を読むのは楽しいものです。

 今日とりあげた『法句経』には、お釈迦様がやさしげな表現でさまざまな「善い行い」について説いてくださっています。

 もちろん、末法の世に生きる凡夫の私たちは、お釈迦様がお示しになった道をなかなか歩むことはできませんが、少しでも「善い行い」を心がけていきましょう。それが、生きる喜び、生きる目的になっていくのです。

◎今日の写真はカナダの西海岸で見た野草です。

 

突然の御喜捨に動揺してしまいました・・・恥ずかしい・・・

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 五月になりました。気持ちの良い初夏の風!

 昨日は岐阜の立政寺という格式の高いお寺に説教師としてお招きいただきました。布教をさせていただくのは、僧侶の修行。どのお寺に呼んでいただいても、同じようにありがたいことです。でも・・・やはり、なんだか誇りに思う気持ちがあったのでしょうね・・・緊張と高揚感がまじりあった不思議な気持ちで電車を待っていました。

 すると、30代ぐらいの男性が近づいてきて、「私も先日得度したんですよ。御供養させてください。」と御喜捨を差し出されました。

 その時の私・・・なんだかとても動揺してしまい、受け取って「ありがとうございます!」と言ってしまいました。

 これは全く間違った御喜捨の受け取り方です。

 御喜捨(お布施)は、修行なのですから、見返りを期待したのでは何にもなりません。私が「ありがとうございます」と言ってしまったら、御喜捨した方は私からの「感謝」という見返りをもらってしまったことになるからです。

 黙って御喜捨を受け取り、軽く頭をさげて合掌。お念仏を十回(お十念)称えるというのが基本的なお作法です。

 僧侶は本来、毎日托鉢をして、御喜捨を集めてお寺を維持していくものです。駅の座雑踏の中で御喜捨いただいたからといって、動揺してしまうのは、普段から托鉢行をおこなっていないからでしょう。う~ん・・・恥ずかしい。

 立派なお寺にお説教に呼ばれたということを誇る私の傲慢に、菩薩様が忠告をしてくださったのかもしれませんね。

安易な道を選んだら山道を10キロあるくことに!

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 昨日、一昨日と吉野へ行ってきました。金峯山寺蔵王権現さまの特別御開帳を拝みにでかけたのです。予想をはるかに超える迫力。まさに「憤怒」という言葉がそのまま巨大化したようなお姿です。お釈迦様がこんなお姿に変化して私たちの苦しみを蹴散らしてくださるのだと思うと、なんだか嬉しい・・・と、思いながら吉野宮の跡地や仏舎利塔(このお寺にはガンジー首相から贈られたお釈迦様の御真骨があると聞いていたので、仏舎利がどんな風にお祀りしてあるのか気になりました)などを拝みながら、秘仏にご縁をいただいた喜びにニコニコ。咲き残りの山桜に見とれたり・・・

 と、「脳天大神」への参道を見つけました。この神様は、首から上の悩みに特化した蔵王権現さまの化身。神仏混交の信仰の象徴のように、真言を称えて仏様への拝み方でも良いし、柏手を打って参拝しても良いという神様です。首から上のことでは悩みの多い私ですから、さっそく参道をたどってみました。急な階段をどんどんどんどん・・・どんどんどんどん降りていきます。狭い谷底の川の上に拝殿が立てられていました。ここは以前、吉野山が厳しい女人禁制の行場(今でも、女人禁制の地域は残されています)だったとき、女性の行場だったところだそうです。

 初老のご夫婦らしき方が川の上に建てられたお百度参りのための建物の中を熱心に行き来していました。受験のお願いに来る方が多いとききましたが、時期的にも、お参りなさっている方の年齢てきにも違うでしょう。根拠はありませんが、ご両親の認知症では・・・と思いました。

 さて、お参りが終わってから、またあの階段を上って蔵王堂に戻るのは本当に大変でしょう。お堂の前に舗装された細い道がありました。「これをたどっていけば、元の道に合流できるのでは?」とすたすたと歩き始めました。道は緩やかな坂道を下っていきます。少し考えれば、あれだけの急斜面を降りてきたのですから、下り坂をたどって元の境内に戻れるわけがありませんね・・・でも、その時は楽に戻れることばかり考えていました。

 その結果・・・道はもとに戻ることなく、違う方向へどんどん下がっていきます。トトロの物語に出てきそうな小さな集落をいくつも通って(それはそれでおもしろかったですが・・・)いつまでたっても電車やバスが通ってそうな道には出ませんでした。

 食事をする場所もコンビニもなく、ひたすらトボトボ・・・とうとう10キロ近く歩いて電車の線路が見えてきました。泣き・・・

 脳天さんのすぐ近くで、道を間違えたようです。お参りに来ているのに、楽をしようと思ったところで、蔵王権現様のお叱りを受けたのかもしれません。

 今日は痛い膝にシップをはっておとなしくしています。

 

慈雲寺で「仏舎利」が発見されました!!

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 先日、弘法大師様の御正当だったので、お大師様の御像のお身拭いをさせていただきました。お像を壇からおろし、お参りの方々と御一緒に御像を磨いたのです。すると!とても不思議なことが起きました。

 お大師様をお祀りしていた壇の後ろから高さ5センチほどの小さなガラス容器が出てきたのです。こんなものがあるなんて、今まで全く気が付きませんでした。

 そのガラス容器の蓋と台座が蓮の細かい細工がされています。容器の中に3段の小さな仕切りが作られていて、そこに何か、小さな、小さな丸い粒が・・・

 「あ!仏舎利だ!」と思ったとたん、あまりに驚いたので、ガラス容器を落としてしまいそうになりました。

 お釈迦様のご遺骨を拝む信仰は仏教の歴史の初期に既に存在していました。お舎利を祀るため、金や銀、水晶などで美しい舎利器が作られてきました。

 名古屋には、タイの王様から贈られたお舎利を祀るために、日本の仏教界が力を合わせて建立した日泰寺というお寺があります。

 また、日本の仏教系の新宗教の中には「お釈迦様の御真骨をお祀りしています」と大々的に宣伝して、その宗教団体の権威を高めようとしている(??)ように見えるものもあるようです。

 仏舎利と言われているもののほとんどは、小さな石の粒のようです。しかし、それを信仰の対象として大切にする舎利信仰は、木や金属でできた仏像を仏様として拝み大切にしていくのと変わりはないでしょう。

 仏像や石の粒の舎利は「仮」のものですが、それをよすがにしてお釈迦様や阿弥陀仏への思いを寄せるとき、それは「真実」と重なるのです。まさに「真仮一如」です。

 慈雲寺の仏舎利は、いったいどこからもたらされたものか全く記録がありません。先代様、先々代さまから慈雲寺とご縁のある方に伺っても、慈雲寺にお舎利があることなど聞いたことがないそうです。

 もしかしたら、秘仏として隠されていたのかも??

 でも、こうして「顕現」なさったのですから、みなさんにも拝んでいただこうと思っています。

 来月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は5月28日(日曜)10時より行います。テーマは仏舎利信仰の歴史を少し振り返ってみたいと思います。

 どなたでも歓迎いたしますので、ぜひ参りください。