慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月25日(日)10時より行います。テーマは「妬みと怒り」。人間を苦しめている煩悩のなかでも特にやっかいな妬みや怒りについてご一緒に考えてみましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

4月8日はお釈迦様がお生まれになった日です

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 4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日です。日本ではちょうど桜も咲いて春の花の盛りなので「花祭り」として知られています。正式には潅仏会といいます。

 キリスト教では、神の子イエス・キリストの誕生が非常に重要ですから、クリスマスも盛大に祝われますが、仏教ではそれほどではありませんね。生まれただけでは、まだ道半ばというところだからでしょうか?仏教徒にとって一年で一番大切なのは、お釈迦様が悟りを開かれた「成道会」(12月8日)でしょう。

 

 とはいえ、私たちはお釈迦様がお生まれになり、お悟りを開いて、教えを説かれたからこそ、阿弥陀仏のお慈悲、救いについて知ることができたのですから、やはり嬉しい日には違いありません。

 慈雲寺には、お生まれになったばかりのお釈迦様を現した可愛らしい仏像があります。小さなお堂を花で飾って、その仏像をお祀りします。

 お釈迦さまがお生まれになったとき、天から甘露の雨が降ったと言い伝えられているので、この仏像に甘茶を掛けてご供養します。

 

 コロナ禍で、子供たちにも不安や動揺が広がっていると聞いています。子供たちの心身の健康をお釈迦様にお祈りしてください。

 

 4月8日は夜8時ごろまで本堂前に花御堂を用意しますので、ご都合の良いときにゆっくりとおまいりください。

謙遜と卑下の違いは?・・・凡夫の自覚について Part 1

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有松の旧東海道近くの公園の桜です。

 

 前回のブログに「講演会で平常心を失った」と告白(?)したところ、そのブログを読んだkさんからお電話をいただきました。kさん御夫妻は毎月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」にも来てくださり、なぜか絶妙のタイミングで喫茶店のモーニングに誘ってくださって励ましてくださる方々です。

 その電話でkさんは「謙遜し過ぎ!ちゃんと庵主さんの気持ちは伝わっていると思う」とおっしゃってくださいました。

 

 僧侶にとって、「傲慢」や「うぬぼれ」は、最も避けるべき心根です。しかし、「自己卑下」もまた色々と問題の多い心持なのです。

 浄土教の教えでは、「凡夫の自覚」こそが信仰の出発点であり、基盤です。凡夫の自覚とは、阿弥陀仏のお慈悲、願いによってしか、自分は救われることのない「悪人」であると自ら気づくことです。

 

 「あなたたちの信仰は楽でいいよね。南無阿弥陀仏と念仏してさえいれば良いのだから。でもそんな簡単なことで救われるのかい?」という言葉を時々聞きます。

 確かに、法然源空上人(法然上人)の残されたお言葉を表面的に見れば、「念仏さえすれば救われる」と受け止めることができます。しかし、その教えには「凡夫の自覚」というものがともなっているのです。

 「凡夫の自覚」は簡単なことでしょうか?私はとても難しいことだと思っています。

 

 例えば、「自分は頭が悪くて」とかいう人はたくさんいますが、そんな人に「そうですよねぇ。私も前々から、あなたは理解が遅くて愚かな人だと思っていました」なんて言ったら大変なことになってしまうでしょう。

 過剰な謙遜や自己卑下の裏には、えてして「傲慢」がひそんでいるからです。「頭が悪い」と卑下する心の奥に、相手から「とんでもない、あなたが愚かなんて感じたことありませんよ!」という返事を期待してはいないでしょうか?

 自分は救われようのない悪人、凡夫だと自覚することはけして簡単なことではありません。(づづく)

 

 

面接試験で平常心を失った??・・・・中日文化センターで「終活」の講演

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平等院の夜桜です

 

 昨日、鳴海の中日文化センターで「尼僧と考える本当の『終活』」という講演をさせてもらいました。実は、この講演会は四月から同センターで始まる「尼僧と学ぶやさしい仏教入門」という講座の「おためし」のようなイベントでした。

 この「おためし」を聞いたうえで、四月からの講座を申しこむかどうか考えるという人が半分以上・・・と聞いていたので、私にとってはまあ、面接試験みたいなものですね。見た目はいかにもずうずうしい感じの私、実は父親譲りの小心者・・・試験にはめっぽう弱い。

 講座の始まる直前には、なんだかおなかの調子がぁぁ~

 

 僧侶は、心が穏やかに安定し、どのような事態に直面しても「平常心」を保つことが求められています。座禅や瞑想はそのための修行です。

 きちんと準備し、練習していれば、なんでも「いつも通り」のはず・・・ですが、そうはいかないのが、僧侶としての資質に著しく欠けているうえに、努力も・・・の情けない坊主の私。

 教室の中にはいると、ソーシャルディスタンスを取った座席の配置のためか、ほぼ満席。私の平常心は、すでにその時点でかなり動揺。お話の筋立てのためのメモを作っておかなかったら、大変だったかもしれません。おまけに換気のためか半分空けられたドアの向こうには、センター側の担当者まで座って話しを聞いているではありませんか?

ひぇ~~~本当に面接試験でした。

 

 その結果、予定していたお話の70%ぐらいしか言及できませんでしたが、なんとか終了。教室から出るついでに声を掛けてくださる方も何人かいて、その内の一人は「ブログを読んで、茅ヶ崎からきました」というではありませんか?茅ヶ崎・・・・って神奈川県?ひぇ~~~!「電車賃返せ」と言われなかっただけでもホッとしました・・・・

 

 というわけで、来月からの仏教入門講座はなんだか成立するようなので、今日からじっくり準備にかかりたいと思います。この講座は毎月慈雲寺で行っている「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」とは内容を変えています。仏教が「何を目指す宗教なのか」ということをテーマに、基礎的な用語の解説や基本的な考え方についてお話します。・

 興味を持って下さった方は、鳴海中日文化センターまでお問い合わせください。電話0120-538-763

人間所詮は五尺の糞袋・・・・

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枝垂桜もそろそろ見ごろになりました

 今日は少々尾篭な話題なので、苦手な方は桜の花だけで、下の文章はパスなさってくださいませ。

 

 慈雲寺のご近所にはため池がいくつかあって、その周辺には桜が植えられています。昨日は病院へ行く途中で偵察したのですが、まだ硬いつぼみも多くて、五分咲きというところでしょうしょうか?おかげで、昨日の強風にも花びらがほとんど散っておらず、なんだかホッとしました。

 

 さて、病院へ行ったのは、名古屋市の特定検診を受けるためです。これは年に一回、無料で健康診断を行ってくれるもので、今月末が締め切り。例によってギリギリまで動かない私もあわてて出かけたというわけです。通常の検診項目のほかに、ワンコイン足せば肺がんや大腸がんの検診も受けられます。

 というわけで、大腸がんの検診は検便です。この検便というのは、なかなか深い。いろいろ考えさせられるものがあります。

 普段は自分が排泄したものを見たりすることはないですが、検便のためにはかなりじっくり観察することになります。そのたびに思い出すのは「人間、所詮は五尺の糞袋だ」という言葉です。

 つまり人間は「150センチの糞の袋」に過ぎない・・・う~ん・・・真実過ぎる。この言葉を誰が言い出したのか調べてみてもよくわかりません。中国の明の時代に書かれた『菜根譚という本が有名なようですが、お釈迦様が「女性への欲望がわいてきたら、彼女が糞の袋に過ぎないことを思え」と言ったという説もあるらしい・・・禅宗のお坊さんが言いそうでもありますね。

 水洗トイレが普及してから、私たちは、自分の体が生み出す「汚いもの」をさっさと水で流して、知らん顔をしていますね。

 でも、いくら偉そうに、清らかな心の人間であるかを誇っていても、体の中では悪臭を放つものを作り続けているのです。

 一方、あらゆるものを背負って体から出ていってくれる排泄物は、私の生存にかくことのできない有難いものであるのですよね。検便で、体の不調を知らせてもらえる人もいるわけです。

 いろいろ考えてしまった朝でした。でも、すっきり排泄で、今日も元気!

 

 

無臭・無煙のお線香に意味はあるのでしょうか?

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お線香のイラストです。しっかり煙が上がっていますね

 

 お彼岸が過ぎて、春も本格化・・かと思ったら、今、外は冷たい雨が降っています。  先日、東京の従姉妹から電話がありました。少々やっかいな事情があって、彼女の母親、つまり伯母の遺骨を慈雲寺でお預かりしています。毎朝、祖父母や父をはじめ、亡くなった伯母や叔父たちの供養をさせてもらっているのですが、お骨を預かっているこの伯母には特別な思いがあります。

 お彼岸なのに、お参りにいけないので、お線香を送ったと従姉妹は言っていました。そのとき、「香りが特徴的で、とても強いのだけれど、私の好きな香りなので選びました。申し訳ない・・・」というのです。香りが強くて申し訳ない???

 

 送られてきたお線香は白檀を贅沢に使った高級なお線香でした。部屋のすみずみにまで煙が広がり、香りが長く残りました・・・・

 従姉妹が母親を思って選んだ香りなのだということが自然に伝わってきました。これのどこが「申し訳ない」のでしょうか?

 

 確かに、自分の気持ちに沿わない香りはだめかもしれません・・・しかし、白檀は線香の代表的な香りではありませんか・・・・

 

 最近は、香りが少なく、煙も少ないことがセールスポイントになっているお線香も多いようですが、無臭・無煙のお線香に何の意味があるのでしょう。煙に乗せて香りを仏さまに供養し、自分自身の心身を清めるのがお線香やお焼香の目的です。しっかり香り、美しい煙がたなびくお線香が理想でしょう。

 

 先日、新聞に仏壇屋さんの広告が出ていたのですが、ペットのためのお線香が紹介されていました。猫のためには「かつおだしの香ばしい」お線香。犬のためには「草原の香り」が用意されているようです。

 香りがお線香の役割であることは、無視されているわけではないのですね。それなら、猫にはかつおの香りを用意するのに、なぜ仏様や故人への供養には無臭・無煙なのでしょうか?

 

 もちろん、「抹香くさい」のは嫌!という気持ちもわからないではありません。香りには好き嫌いがあって当然です。

 好きな香りと出会えるまで、お香の専門店などを少し回ってみてはどうでしょう?

 

 形式だから線香を立てるというのではなく、「香りを供養する」というのが、お線香の本来のありかたです。そして、お気に入りの香りを献げることによって、自らもその香りに癒されるのです。

お葬式の心配だけが「終活」ではない

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「終活」で心配なのはお墓と葬儀だけ?

 上のイラストはネットの無料画像からお借りしたものです。「終活」で検索すると、上のようなイラストがたくさん出てきました。

 葬儀のこと、お墓のことを心配している様子ですね。真ん中の僧侶のイラストはなんでしょう?お坊さんが妙にニコニコしているのが気になります。ひょっとして「お布施」の象徴でしょうか? そうだとしたら、そして、それが「終活」での常識なのだとしたら、なんとも情けないことです。

 先日も新聞の一面を使った大きな「終活セミナー」の広告が出ていました。上の半分は名古屋市にある大きなお寺の納骨施設の宣伝。下のセミナーの案内の内容は、葬儀の相談とお骨の行き先についてのことでした。

 葬儀会館の宣伝を見ると「残された人の迷惑にならないように準備しましょう」という口調がしばしば出てきます。

 葬儀や法事、お墓のことが「迷惑」という認識はどこから来るのでしょう?自分自身が、親や祖先の葬儀、その後の供養を「迷惑だった」と感じているからでしょうか?

 「終活」の第一歩として、自分にとって、さまざまなご縁で参列した葬儀、法事、墓参りなどが「迷惑」なことでしかなかったのか?それはなぜなのか?考えてみてはいかがでしょう?

 いや、第一歩は、「自分が死ぬ」というのはどういうことなのか、考えてみることだと思います。人が自分の死と真摯に向き合おうとするとき、大きな力になり、穏やかな安心を与えてくれるのが宗教です。私は浄土宗西山派の僧侶ですから、「阿弥陀様が極楽を用意してくれているから、何も心配しなくて良いよ」と、上のイラストのお坊さんのようにニコニコとお話したいです・・・・

 その上での葬儀やお墓の準備でしょう。人が「死」について真摯に向き合おうとしている姿は、子供たちをはじめとして、多くの縁者に良い影響を及ぼすものだと思います。

 3月28日の1時半から、鳴海の中日文化センターで「終活」のお話をさせていただくことになりました。「尼僧と考える本当の『終活』」というタイトルです。(問い合わせ0120-538-763)

 「終活」に関心のある方においでいただいて、皆さんがどんな風に「終活」をなさっているのかぜひ伺いたいという気持ちです。ご一緒に考えてみましょう。

お彼岸は、「生きる目的」を考える七日間

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慈雲寺の木瓜は今が見ごろです

 慈雲寺には赤、白、そして上の写真のようなピンクの木瓜があります。他の木の陰になって気がつかないうちに、花盛りを迎えています。上の写真は数年前に従兄弟が撮影してくれました。狭い境内の中ですら、気をつけていないと見逃してしまいます。花の盛りは本当に短くて、哀れですが、私たちの命もまた儚いものです。

 

 さて明日(20日)はお彼岸のお中日です。お彼岸の間は、少しゆったりした時間をとって、「生きる」とはどういうことなのか、生きることに目的はあるのか?と考えてみませんか?

 

 仏教は生きることの目的、生まれてきたことの意義について、とても明確な答えを示しています。なぜ生きるのかについて、とてもシンプルで、それだからこそ力強く、本当の安心をもたらす教えです。

 

 今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」(3月21日10時より)は、この「なぜ生きるのか?」をテーマにお話したいと思います。

 講座という名前はついていますが、どなたにもわかりやすいお話を心がけています。

 どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。短い彼岸法要も行います。

◎慈雲寺へのアクセスについてはホームページ  jiunji.weebly.com  の contactのページをご覧下さい。