慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

お月様は現れなかったけれど、綺麗な尼僧様登場!

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 昨夜は、厚い雲の上に私が生まれてから一番大きなお月様が輝いていたはずです。せっかく、その月光を浴びてお写経を・・・・と思ったのですが、残念!!

 でも、『般若心経』の御利益はたっぷり現れましたよ!可愛らしいお子さんを連れたご家族。ご近所の御婦人たち、そしてなんと、綺麗で愛らしい尼僧さんもいらしてくださいました。新しいご縁の全てが嬉しいですが、昨夜は特にニコニコ・・・

 ご近所からいらしてくださった方々は、慈雲寺のすぐ裏手にある鍼灸院の先生からの口コミ。慈雲寺の掲示板を見て、写経の会のことを知ってくださったようです。こういう口コミは特にありがたいですね。

 そして、尼僧さまは、このブログが作って下さったご縁です。ご自分のお寺でもブログをなさっていて、偶然この「おろおろ日記」を見つけてくださったらしい。インターネットで広がるご縁は、なんだか不思議な感じがしますね。

 前にも何度も、このブログに書きましたが、美濃・尾張三河地方には、伝統的に尼僧寺院がたくさんありました。しかし、どのお寺も後継者不足。男性僧侶が後を継いでくださったり、そのまま無住のお寺になってしまったり・・・・でも、まだ希望はあるのですね。

 この尼僧様はご自分で僧侶の道を発心なさったそうです・・・・自分で発心して僧侶になるのは当然のことなのですが、「跡継ぎがなくて、無理やり」とか「夫が亡くなったので、息子がお寺を継げるまでの中継ぎ」のような感じで、やむを得ず、というか嫌々(?)出家する尼僧さんが少なくないと聞いていたからです。

 昨夜の尼僧様は、今いらっしゃるお寺のご住職のお孫さん。お祖母様がとても楽しそうに尼僧としての日々を過ごしているのを見て、自ら僧侶を志されたそうです。なんて素晴らしいご縁なのでしょう。

 私も尼僧として生きられること、慈雲寺にご縁ができたことを本当にありがたいと思っています。私が楽しそうに生き生きと暮らすことで、「尼僧として生きるという選択もありだな」と思ってくださる方が現れたらいいなぁ・・・。あ、その為には、もっと僧侶としての資質を深めなければいけませんね。う~ん

 月は見えなかったけれど、阿弥陀様のお慈悲に例えられる月光は私たちに絶え間なく降り注いていることを感じた幸せな夜でした。

 12月の満月は14日です。7時半より写経の会をいたしますので、どなたでもお気軽にご参加ください。

◎今日の写真は、慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺の秋景色です。小さな門は医薬門と呼ばれ、そこを通る参道が紅葉のトンネルのようになります。

明日はエクストリーム・スーパームーンの巨大満月。写経にいらっしゃいませんか?

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 明日、14日は特に巨大な満月が現れるというエクストリーム・スーパー・ムーンです。毎月、満月の夜、7時半から写経の会をしています。お月様の輝きは、しばしば阿弥陀様のお慈悲の光に例えられています。月を眺めて心をゆったりさせて、写経をしてみましょう。

 慈雲寺の写経会は「のんびり、ゆったり」でやっていきたいと思います。写経は修行の一つですから、背筋をまっすぐ伸ばして真剣に集中して行うのがベストかもしれませんが、慈雲寺では「自分の気持ちにすんなり」書けることをまず目標にしたいと思います。

 『般若心経』の書写もできますし、「南無阿弥陀仏」のお名号のなぞり書きもできます。必要な用具は全部用意してありますので、手ぶらでおいでください。用意しているのは筆ペンですが、やはり墨をすって筆で書きたいと思われる方は、どうぞご自分の使い慣れたお道具をもっておいでください。

 御一緒に『般若心経』を読誦してから始めましょう。毎回、心経についての短いお話しをしますので、少しずつ心経の内容についても御一緒に学んでいきましょう。」

◎今日の写真は慈雲寺が属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺の紅葉です。両側から樹齢100年を超える楓が枝を伸ばして、もみじのトンネルができます。

 11月29日に慈雲寺から光明寺へお参り兼紅葉狩りにバスで出かけます。後、数名分の余裕がありますので、ご希望の方は慈雲寺へお知らせください。会費は昼食付で1万円です。

ご尊講を聞かせていただきに本山へ

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 慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山は、京都の西山にあります。一昨日から、この本山で住職の研修会がありました。この研修会は主として住職になったばかり、もしくはこれから住職になる僧侶を対象に、西山浄土宗の僧侶としての総合的な資質向上を目的としたものです。

 参加者のほとんどは若手の僧侶ですが、私はまだまだ新米住職なので、無理やり(?)参加させていただきました。今回は、御法主猊下の御尊講を受けることができるという大ボーナス(あ、こんな表現は失礼ですけれど・・・・)

 西山浄土宗の御法主とは、総本山光明寺の住職であり、管長として宗門のトップに立たれる方です。今年、御法主になられた堀本賢順上人は、私が本山で小坊主として修行に入ったとき、最初に宗門の教義を教えてくださった恩師です。生意気な口調で、頓珍漢な質問ばかりを繰り返す私を丁寧に指導してくださいました。

 あれから四半世紀を過ぎて、また講義を受けることができるのは本当に幸せです。しかも参加者はたったの5人!若手の僧侶はお寺以外に仕事をもっている人も多く、平日に一泊で京都へ出てくるのはなかなか大変なのでしょう。それにしても、もったいないことです。

 御法主は、「たとえ一人でも、教えを伝える機会があるのは嬉しい。」とおっしゃっていたとか、今回教えていただきたことを何度も復習し、自分の身に着けていかなければと思っています。

 光明寺は秋の紅葉で知られています。まだまだ色づき始めたばかりですが、数本、鮮やかな紅色に染まっている木がありました。嬉しい驚きでした。

◎今日の写真は、数年前に撮った光明寺の紅葉です。

今月の29日に慈雲寺からバスで光明寺へ参拝します。現在の様子から見ると、良いタイミングで紅葉が楽しめそうです。後、数席余裕がありますので、ご参加くださる方はお早目に慈雲寺までお知らせください。

 

「叱られた」という言葉を使うな!、と叱られました

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 先日、友人と話していて、自分が普段使っている言葉の意味が大きく違って受け取られていることに気が付きました。文章を書いて生活の糧としている自分としては、「意味が通じない」というのが一番情けないわけで、かなりのショックでした。

 その言葉が「叱られる」です。私は誰かが「叱る」というのは、そこに少しの「好意」が入っている言葉として使っていました。つまり、叱ることによって良い方向に向かうことを願う気持ちが入っていると思っていたのです。

 ですから、全く見当違いなことで叱ったり、理不尽なことで叱ったりされたら、その時はネガティブな「見当違い」、「理不尽」、「誤解」という言葉を足して言うものだと思っていたのです。

 ところが、友人は「叱る」という言葉自体が非常に悪いことで、叱った人間を非難することになるというのです。「○○さんに叱られた」と誰かに言うこと自体が叱った人への悪口、批判になるというのです。「叱られた」ではなく、「ご注意を受けた」などという言葉に変えるようにアドバイスされました。

 おお!これはうかつでした。私は、「叱る価値もない」と思ったり、その人のことが心から嫌いだったりしたら、叱ったりしないで放っておく・・・と思ったので、「叱る」にはプラス面があると思いこんでいました。

 「○○さんに叱られた」と誰かに言うとき、私としては「○○さんが私のことを思って言ってくださった。教えてくださった。」という意味で言っていたのです。

 そうかぁ・・・誰かを叱るというのは悪いことだったのか・・・・確かに、「教えていただいた」なら誤解のしようがないですよね。

 以前にも、ある方から「『叱られた』というのはやめた方が良い」と言われていたのを思い出しました。その時期は、あまりにあちこちから叱られるので、素直に(?)「叱られた」と思っていたのですが・・・・

 これはとても大事な指摘でした。私は口癖のように「叱られた」を多用するので、悪印象をばらまいていたと友人は言っていました。

 僧侶としてもライターとしても、言葉の用い方は最重要問題。自分の口癖については特に気を付けなければと反省しています。

◎今日の写真は、カナダのモントリオールで見た群像の彫刻です。一人一人の表情がとても面白い!

師僧の衣鉢を受け継ぐ

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 夏が終わったのが信じられないとジタバタしていた私ですが、先ほどの天気予報では「明日は冬の服装でお出かけください」と聞いて諦め(??)が付きました。あ、別に夏が好きなわけではありません。湿気の多い日本の夏には泣いています。

 私の冬支度は、師僧が使っていた「でんち」を着ること。「でんち」とは、綿入れになっている羽織ですが、体の前の部分は無く、背中部分だけ。紐で背負うような形になっています。背中が温かいと、なんだか体中がポカポカしてきます。

 師の僧侶から弟子に引き継がれる「財産」は、仏の教え、衣、そして托鉢に使う鉢です。跡継ぎのことを「衣鉢を継ぐ」というのはこのことからきています。

 私は小柄ですが(横幅は大柄ですが・・・)、師僧は私以上に小さな方だったので、師僧が使っておられた衣のほとんどは着ることができません。先々代の住職は背の高い方だったのですが、私の師僧が自分の手で丈を短く直して着ておられたようです。

 でも、「でんち」は大丈夫。これを着ると、師僧の温かい教えに触れているような気がして嬉しくなります。今まで慈雲寺を護って来た師僧たちの衣鉢をきちんと継げるか心もとないですが、少しずつ精進していきたいと思います。

 ところで、「でんち」ってどういう漢字を書くのか気になったので、今日少し調べてみました。どうやら「殿中羽織」から来ているという説が有力のようです。

◎今日の写真はアメリカの先住民、チェロキー族の人々に伝えられたバスケットです。素朴ですが、実用的で美しいものでした。

夏が強烈すぎて、冬になりつつあるのが信じられない!

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 今、このブログを書き込んでいる机の周辺を二日前から蚊が飛んでいます。僧侶は生きものを殺すことはできないので、懸命に追い払うのですが、プ~~ンと独特の音をたてて何度もやってきます。今夜はとうとう刺されてしまいました。

 血を吸う蚊は妊娠しているメスだけとか・・・蚊の方も寒くなる前に子孫を残そうと必死なのでしょう。刺されても痒くならなければ、少々の血ぐらい喜んで差し上げるのですが・・・私は痒みに弱い・・・すぐ搔き壊してしまうので、私の手足は本当に醜い状況です。

 今年の夏はとても暑かったので・・・というか、名古屋に来て三回目の夏ですが、最初の二年は無我夢中で気候のことなどにかまっている余裕がなかったので、暑さの記憶が飛んでいるだけかも?・・・なんだか、いつまでも夏が終わっていない気がしてなりません。

 もちろん朝晩はとても寒くなってはいるのですが、暖房器具を倉庫から出すのに違和感があるのです。なんだか、あの強烈な夏が挨拶も無しに去っていくわけがない・・という気持ちでしょうか?

 でも、変な未練など関係なく、時は移ろって行くのです。

 仏教では、すべてのものや現象は「空」だと教えています。仏教の「空」とは、何もないことではなく、「実体」がないということです。このお話しは今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」でお話ししようと思っています。

 「夏」というものにも実体があるわけではなく、いつから始まり、いつ終わるわけでもない。夏が終わったということを自分で決めているだけです。蚊が飛んでいる間は夏が続いている・・・と言い張ることはできるかもしれませんが、それはむなしいことです。

 では夏はどこにあるのでしょう?いったいいつ消えてしまったのでしょう?

 もう11月だから、当然夏は終わっている・・・月という基準を出せば、それは正しいとらえ方ですが、夏の虫の代表である蚊を基準にして、「蚊がまだ生きている間は冬じゃない!」ということもできるわけです。すべては物差ししだいで変化するのですから、「夏」というものに実体があるわけではないのです。

◎今日の写真は古今和歌集に描かれた宮廷の美女たちの後ろ姿です。

 

怨憎会苦

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 土日の朝7時半から英会話の朝起き会をしています。今日は二人、新しい生徒が来てくれました。このごろは若いお母さんやお父さんが一緒に参加して下さるのが嬉しいことです。

 僧侶になって、嬉しいことはたくさんありますが、その一つが「新しいご縁が毎日増えてくる」ということです。慈雲寺は古い意味での「檀家」のないお寺です。しかし、歴代の住職たちが少しずつ築いてきたご縁がたくさんあります。それが、このお寺の宝物。私がありがたく受け取らせていただいたものです。この宝を増やし、耕し、より豊かで深い、そしてなにより生き生きと紡いでいくことが大事なことです。

 その責任はなかなか重く、「どうすれば良いだろう・・・」と悩むところでもあります。でも、皆さまのおかげで何とか日々を進んでいるのです。

 「怨憎会苦」というのは、仏教が人間の生きる苦しみとして挙げた「四苦八苦」の一つです。意味は、恨みや憎しみを持つ人と会わなければならないという苦しみです。

 人が生きているうちに無数に結ばれる縁は、いつも自分の都合の良いものばかりではありません。

 でも、縁は一方的に結ばれるわけではありません。なぜ、出会いが苦しみとなったのかという原因をじっくり考えてみましょう。憎しみや憎悪も一方的に生まれてくるわけでもありません。相手を責めたり、相手の変化を期待するのをやめて、一度、自分の「憎しみ」をいったん手放してみてはどうでしょう?

 けして簡単ではありませんが、人を変えるより、自分が変わるのが解決の早道ですね。「我慢」をするのではありません。我慢はかえって執着を強めてしまいます。「こんなに我慢しているのだから・・・」と怒りが深まってしまいがちです。

 いったん立ち止まって、固く握った手を開いてみませんか・・・

◎今日の写真は宇治の平等院です。極楽の世界を地上に再現したとされる素晴らしい寺院です。