ある方の百か日の法要を勤めさせていただきました。亡くなられてから百日目の法要のことを「卒哭忌」ともいいます。死を悼んで慟哭する日々と終えるという意味です。反対に言えば、百日の間はどれほど慟哭しても良いのだということです。
近しい人を失う哀しみは、百日で済むものではないでしょう。「おばあちゃんは90歳を越えていたのだから大往生です。」という人であっても、ふとした時に自分でも驚くほどの哀しみが押し寄せてくることもあります。また、最初は一日中、寝てからさえも亡くなった方を思って涙が出ていたのに、やがて、その人を忘れている瞬間が増えてきて・・・・ということもあるでしょう。
百日は一つの区切りではありますが、哀しくなったら無理に涙を抑える必要はありません。周囲の人から「いつまでも嘆いていたら、亡くなった人も成仏できなよ。」などと言われたりするかもしれませんが、哀しみを無理に紛らわせようとしなくても良いのです。涙は涸れるまで流してください。哀しみと正面から向き合うことが大切です。
お墓参りやお仏壇へのお参りは、死を悼み、別れを哀しむのにとても良い場所です。お寺の本堂で静かに阿弥陀様に向き合うのも良いですね。慈雲寺の本堂はいつでも、どなたでも自由に中に入ってお参りしていただけます。
浄土系のお寺はどこもそうなのですが、慈雲寺の本堂は経典の中に描かれた極楽の様子を表現するように作られています。亡くなられた方は今、極楽で阿弥陀様やたくさんの仏様たちの説法を聞き、心安らかに修行をしておられるのです。そのことを思うと、あなたの心も少しずつ慰められることでしょう。
◎今日の写真は徳川園で見た寒牡丹です。うっすらと黄色みを帯びた美しい花です。