気持ちの良い青空の一日でしたが、日が落ちると急激に気温が下がってきました。毎年1月24日の夜は、京都を中心に全国から集まった法然房源空上人(法然上人)の教えをしたう僧侶や一般信徒たちが、嵐山に近い太秦から長岡京市の光明寺まで16キロの道を念仏行脚します。今頃、京都は雪がちらついているのではないでしょうか?道が凍結して滑りやすくなっているのではと心配です。
法然上人は建暦二年(1212)に亡くなられ、御遺骸は京都の東山、大谷の地に埋葬されました。法然上人の没後も、上人がお説きになった「南無阿弥陀仏」の称名念仏の教えは増々民衆に広まっていきました。しかし、そのことを快く思わなかった比叡山を中心とした人々からの弾圧も日に日に強まっていきました。
そして上人の没後、15年が過ぎた嘉禄三年(1227)、法然上人のお墓を暴いて、辱めようというたくらみが発覚しました。弟子たちは、危険を察知して上人の石棺を掘り起し、京の都を横切って西山近くの太秦にあった西光寺に避難させたのです。しかし、弾圧の手は太秦にも迫ってきました。すると、上人の石棺から一筋の光が発せられたのです。その光を追って行った先には、法然上人の弟子である蓮生法師(熊谷直実)が開いた念仏三昧院がありました。
念仏三昧院のある粟生の地(現長岡京市)は、法然上人が比叡山を降りて、初めてお念仏の教えを民衆に説かれた「浄土門根源地」です。弟子たちは深い闇の中を法然上人の御遺骸を運んで行ったと伝えられています。
御遺骸は、その粟生の地で荼毘に付され、遺灰は念仏三昧院の裏山に埋葬されました。念仏三昧院は、現在の西山浄土宗総本山光明寺の前身です。以来、光明寺は法然上人の御本廟を御護りする寺として法灯を受けついできました。御本廟は、御影堂(本堂)の裏手の小高い丘の上にあります。
嵯峨の二尊院や京都東山の知恩院にも法然上人の御廟がありますが、光明寺から分骨されたものです。
今年は残念ながら参加することができませんでしたが、毎年おこなわれる念仏行脚は、弾圧に耐えて法然上人の教えを守ろうとした僧侶たちの緊迫した思いを追体験する素晴らしい機会です。16キロをひたすら低い声で念仏を称えながら歩いていると、心にはさまざまなことが浮かんできて、やがてそれが透明な思考に変わり、「ただ一向に念仏すべし」という法然上人の教えに素直に従える気持ちになります。
来年こそ、体調を整えて参加したいと思っています。
◎今日の写真はウズベキスタンで見たライオンの石像です。