慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

慈雲寺の宗派について Part3 流祖善慧房証空

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 慈雲寺が属する浄土宗の西山派についてのお話しの三回目です。

 日本に浄土教の教えを確立なさったのは、鎌倉時代の僧侶、法然源空上人(法然上人)です。善慧房証空上人は、法然上人の最も円熟した宗教思想を直接受け継いだ高弟です。法然上人がお亡くなりになった後、京都の西山にある三鈷寺を拠点に活動を続けたので、西山の上人とか西山上人とか呼ばれていました。西山派の名は、そこから来ています。

 証空は治承元年(1177)に、京都の有力貴族の一人、久我内大臣通親の一門に生まれました。実父は久我親季といいますが、詳しいことは伝わっていません。生誕地もまだ特定されていません。

 一般に僧侶は、出家以前の詳しい伝記がないことが多いのです。僧侶になって「生まれ変わった」ので、それ以前のことはあまり関係ないということかもしれませんね。

 しかし、通親は一門の長として、親類に非常に利発な子供がいることに早いうちに気づいていたようで、幼いころに証空を猶子(養子)にしています。優秀な身内を朝廷内に配置するのも、貴族の権力維持の戦略なのでしょう。通親もいろいろと計画があったのかもしれません。

 しかし、証空は14歳の元服直前、出家をしたいと言い出します。しかも、当時の最有力寺院である比叡山延暦寺や奈良の大寺院ではなく、吉水で布教を始めたばかりの隠遁僧である、法然源空の弟子になりたいと言い出したのです。

 法然上人は当時58歳。関白九条兼実に教えを説くなど、少しずつ名を知られるようにはなっていたようですが、まだ「法然教団」のようなものが形になっていたわけではありません。どうして14歳の少年が法然上人のことを知ったのか?証空上人の伝記には、そのことには全く触れていませんが、興味深いことです。

 真宗親鸞聖人も、浄土宗鎮西派の弁長上人も、もともとは比叡山で修行し、後に法然上人を訪ねた方々です。しかし、証空上人は、僧侶になる第一歩から法然上人の教えを受け、最後まで師僧のおそばに仕えていました。法然上人の最も円熟した、最晩年の教えを直接授けられたのです。

 浄土宗西山派は今、三つに分かれています。慈雲寺はその一つである西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)に属しています。総本山は京都府長岡京市にある光明寺です。

 法然上人がお亡くなりになってから15年後、念仏の教えに対する迫害が強まり、上人の御遺骸も東山の吉水から移さなければならなくなりました。そして、光明寺の前身である念仏三昧院へ避難し、そこで荼毘に付されました。

 総本山光明寺の境内の一番高い場所には、法然上人のご遺灰を祀る御本廟があります。嵯峨の二尊院や東山の知恩院にも、法然上人の御廟がありますが、光明寺から分骨されたものです。

 光明寺は、法然上人がお念仏の教えを初めて一般の方々に説き聞かせた場所ともいわれています。光明寺の門の前には、「浄土門根元地」という大きな石碑が立っています。これは、永禄六年(1563)、光明寺正親町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに基づいて建てられたものです。

 お念仏の教えが多くの優れたお弟子方によって広められたことを本当に喜ばしく、ありがたく思っています。解釈や表現の違いはあっても、皆、阿弥陀仏のお慈悲を説いてのですから・・・しかし、私はこの「浄土門根元地」にご縁を結ぶことができ、慈雲寺に赴任できたことをとりわけ、嬉しく思っているのです。

◎今日もナイアガラの滝の近くにある町で見た庭の写真です。こんな東屋でのんびりしたいですね。