慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

法然房源空上人(法然上人)の弟子たち Part2

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 前回は、 法然上人の弟子たちのお話しを僧名から見てきました。法然上人は、僧侶としての正式なお名前は法然源空です。慈雲寺が属する西山浄土宗の流祖は、法然上人のもとで出家し、證空という名を授けられました。

 以来、證空は法然上人が御遷化なさる(亡くなる)まで、直弟子としておそばに仕えて教えを受け続けたのです。その後、證空は京都盆地の西側に連なる西山の中腹にある三鈷寺に住しながら、法然上人の教えを広めていったのです。そのため、人々は「西山の上人」(にしやまのしょうにん)とか「西山上人」(せいざんしょうにん)を呼びならわすようになりました。

 そのため、法然上人の「浄土宗」の中で、西山上人の弟子たちは西山義(せいざんぎ)と呼ばれるようになり、西山派を形成してきたのです。

 Part1で書いたように、現在「浄土宗」として知られる、知恩院を総本山とする宗派は、法然上人の直弟子聖光房弁長上人からの教えを受け継いできた、浄土宗の鎮西派です。

  鎮西派は九州を中心に教線を広げ、西山派は京都を中心に和歌山などに教線を広げていきました。西山派は宇都宮の領主と深い縁があったので、関東にも深く根を下ろしました。

 しかし、江戸中期になって、徳川幕府は浄土宗系各派の統合を強制的に進め、尾張三河より東の西山派のお寺は、どんどん鎮西派に吸収されていったのです。しかし、浄土宗の中にあっても、西山派は独自性を保ち続け、ついに明治になって鎮西派が主流だった「浄土宗」から独立しました。

◎今日の写真は紀伊勝浦の海岸に打ち寄せられた貝殻です。