慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

12月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は12月17日10時より行います。テーマは「廃仏毀釈とは何だったのか」です。どなたでもお気軽にご参加ください。

「人が死ぬ」ということを知ったとき

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 今朝の新聞では、殺人をおかした19歳の女子学生の記事が大きく取り上げられていました。「人を殺してみたかった」という彼女の発言の”異常さ”が強調され、テレビでは「周囲がもっと早く気が付かなかったんですかねぇ」というコメンテーター(と称する人々)の発言が繰り返されていました。

 仏教では人を殺すことも殺させることも最も強く戒められています。たとえ自分自身でも殺すことはできない。仏教では自殺も認められていません。しかし、ただ禁じるだけではなく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに僧侶としてきちんと答えられなければならないと、今日は一日中考えていました。命の尊さ、とりかえしのつかないことだから・・・などなど、頭に浮かびますが、もっと、子供にも分かるように明確に説けるようにすべきでしょう。

 私はごくボンヤリした子供でしたし、身近で亡くなった人もいない「お葬式が出ない」家庭環境で育ったので、「人が死ぬ」ということに全く無頓着でした。しかし、中学一年のときに、同級生の一人が喘息の発作で急死したことがきっかけで、大きく考えが変わりました。その日、私は彼女と一緒に下校し、数日後に遊びに行く約束をしていたのです。亡くなったのはその数時間後です。友達の急死はもちろんとても悲しいもので、彼女が哀れでなりませんでした。しかし、私が一番強烈にショックだったのは、彼女は自分が数時間後に死ぬことを全く知らなかったという事実です。少しでも何かを感じていたら、私と遊びに行く約束をするはずはないでしょう。私はどうやらそれまで、人は死ぬ前に何か「知らせ」があるものだと漠然と思っていたようです。病気であるとか年をとるとか・・・もちろん急死の可能性を知ってはいたでしょうが、初めて実感として「人はいつ死ぬか全くわからないのだ」と思い知らされたのです。 彼女のお葬式のとき、私は目が溶けてしまうのではないかと思うほど泣きました。彼女が可哀そうという思い、別れのつらさ・・・しかしそれ以上に、いつ死んでしまうかもしれない自分自身が可哀そうで、恐ろしくて泣けてきました。

 私にとって、出家への道はこの時が起点になっているのかもしれません。

・今日の写真は岩手県浄土ヶ浜です。東日本大震災のときは、この海周辺でも数多くの方が犠牲になりました。ご冥福をお祈りいたします。