慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

12月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は12月17日10時より行います。テーマは「廃仏毀釈とは何だったのか」です。どなたでもお気軽にご参加ください。

お位牌やお仏壇、お墓は極楽を見渡す「窓」

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 僧侶は読経や儀式に関する研究をする法事師、お説教を通じての布教を専門にする説教師など、いくつかの専門分野に分かれています。もちろん、すべての分野にバランスよく通じているのが一番良いのですが、やはり向き不向きがあります。私は説教師の道を少しずつですが歩き始めています。

 そのため、ほかの僧侶の方の法話やお説教を聞かせていただく機会があれば、宗派にかかわらず出かけていきます。毎週火曜に中日新聞の文化欄には、そうした宗教関連の行事案内が出ています。

 さて、昨日は知人の僧侶がお説教をするというので、電車に乗って出かけました。以前からの知り合いですが、お説教を聞くのは初めて。とてもまじめな青年僧なので、楽しみにしました。

 その青年僧はゆっくりとした口調で、今まで家族にも語ったことがないという辛い経験を話してくれました。東日本大震災の時に、その青年僧の友人が津波に流されて亡くなったというのです。その友人は、いったん家族を避難所に連れて行ったあと、自宅の仏壇にあったお位牌を取りに行って、津波に巻き込まれたらしいのです。

 青年僧は、その友人にお位牌の大切さを説き、それ以来、友人は亡くなられた人の魂が位牌の中にこもっているものとして大切にしてきました。それで、どうしても位牌を避難させたかったのでしょう。青年僧は、自分が友人に説いたことが、友人の死につながったのではと、ずいぶん苦しんだそうです。

 この話は、私の心にも重いものを残しました。仏壇やお位牌、お墓、そしてお寺を守っていくことの大切さを私たち僧侶はいつもみなさんに説いています。自分の身に危険が迫っているときに、「お位牌を流すわけにはいかない!」と思った信仰深い青年の気持ちに、私たちはどう答えれば良いのでしょうか?難しい問題です。

 私はお位牌や仏壇、お墓は「窓」のようなものだと思っています。仏さまも、お浄土で菩薩となっているご先祖も、皆、神通力がありますから、私たちがその人を偲ぶとき、必ずその思いに寄り添ってくだざいます。ですから、場所や物は本質的には関係がないのです。どこでも太陽の光が届くようなものです。

 しかし、しばしば私たちの心は四方を壁で覆われた部屋の中に閉じこもってしまいます。外にはきれいな青空が広がり、お日様の光が満ちているのに、暗い、暗いと悲しんでいるようなものです。

 そんなとき、カーテンを開け、窓を大きく開けば、光は部屋の中いっぱいに入ってきます。お仏壇をきれいにし、お位牌を大切にしてお供えをすることや、お墓にお参りする、本堂にお参りして阿弥陀様に手を合わせる・・・・これらのことは、私たちが散乱しがちな心を落ち着け、思いをこめる手段です。それは、カーテンを開け、窓を開けるようなものなのです。

 仏壇に手を合わせ、仏さまを拝み、お位牌に手を合わせて祖先の御恩を偲ぶとき、心が落ち着き、穏やかな気持ちになることでしょう。お寺の本堂で静かに手を合わせるのも生活の大切な一部にしたいものです。

 しかし、それはあくまでも「窓」。本当の大空はその向こうにあることを忘れないでください。窓ガラスを磨けば、空もよく見えますが、ガラス磨きばかりに夢中になっていると、せっかく美しい雲が流れているのを見落としてしまいます。

 本当に大切なものは何なのか、それを考えていくのが仏教徒の生き方です。

◎今日の写真はカナダのニューファンドランド島の森の中で見た花です。なんだか幻のような透明感がありました。