慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

恵方巻を食べる人が六割越え?!豆まきは減っているのに??

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 先ほど、お医者さんへ持病の薬を処方していただきに行ったとき、ぼんやりと待合室のテレビを眺めていたら、「恵方巻を食べるといる人が一昨年の61%から去年は63%に増えた。」という話をしていました。名古屋のローカル局の番組なので、名古屋周辺のことなのか、全国的な統計の話なのかは聞き取れませんでしたが、六割を超える人が、節分の夜に今年の恵方に向かって、太巻きをむしゃむしゃと食べているのかと思うと・・・なんだかなぁ・・・という気がします。

 しかも、無言でいっきに食べるのがお約束とか・・・それ、けっこう滑稽な姿じゃないでしょうか?「笑いながら食べる」という地方もあるようですが・・・。

 一方、ちょっと調べてみたら節分に豆まきをする家は4割を下回りそうで、減少傾向にあるとか・・・掃除が大変だからかなぁ?恵方巻のように、すべてのコンビニで大宣伝とかしないからかしらん?

 昔の知り合いに、日本のホワイトデーにマシュマロを贈るという習慣を生み出した人がいました。おかげでマシュマロの認知度は高まり、マーケティングとしては大成功。バレンタインデーのチョコレートも、ハロウィーンの大騒ぎも、みんなマーケティングの成功例でしょう。

 「方角」にこだわるのは平安時代から日本の文化に深く根付いています。出かける方角が悪ければ、わざわざ違う方角へ一旦行ってから遠回りしたり、方違えの神社で祈祷してもらったり・・・

 日本人の心に深く根差した信仰にうまくマッチしたのでしょう。でも、なんだかあざとい感じがして仕方がありませんね。

 どうせなら、ぜひ豆まきもしていただきたいものです。

◎今日の写真は京都の古い町家の明り取りです。窓の無い細長い町家の工夫ですね。

 

盆梅に気を取られえて蝋梅を見逃してしまいました。

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 私は花の中でも蝋梅がとりわけ好きです。花の少ない時期に健気に咲いてくれるし、半透明の黄色の花弁もたおやかで美しい。その香りも心にゆっくりしみ込むようです。

 慈雲寺に赴任したとき、庭の一角に隠れるように蝋梅の木があるのを見つけたときは本当に嬉しくなりました。突然住職になることになったので、本当に心細いときに「ああ、来年この蝋梅が咲くのを毎日見ることができるのだ。」ととても勇気づけられたのです。

 去年も一昨年も、とても綺麗に咲いてくれました。

 しかし・・・・今朝、雪景色を楽しみながら境内を歩いていて、ふと、「あ、蝋梅はどうしたかなぁ・・・」と思い出しました。残念ながら、花は盛りをとおに過ぎていて、乾いた花が枝にしがみついている状態でした。おそらく、今年、この花を愛でた人はいないでしょう(別の木の陰に隠れているので、参道からは見えません)。

 人知れず、今年も綺麗に咲いていたのだと思うと何だか哀れでした・・・・私が蝋梅のことを忘れていたのは、おそらく昨年末に手に入れた盆梅が元旦に数個花を咲かせて以来、毎日一つ、二つとゆっくり開花しているのに心を奪われていたからだと思います。

 新しく手に入れたもの、珍しいもの、新しく知り合いになった人など、新たに自分の人生に登場したものに、人はつい心を奪われてしまいがちです。大事な友達をおろそかにしたり、家族をないがしろにしたり、長年使ってきたものを粗末に扱ったり・・・

 「新しい」ものに興奮していた時が過ぎてしまうと、蝋梅はもう花を散らし、友達や家族が疎遠になってしまったり、大事なものがどこかへ行ってしまったり・・・・

 今日は蝋梅に大切なことを教えてもらった気がします。もちろん、新しい盆梅も大切に育てますが・・・・

◎今日の写真は東山植物園で見た蝋梅です。

「悪気はない」は免罪符ではありません

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 外は今年初めての雪です。朝の英会話早起き会をやっているうちにチラチラと舞い降りてきました。途切れなく降っていても昼間は積もりそうになかったのですが、夜になると気温もマイナスになり、境内は雪化粧を始めました。

 先日、知り合いのAさんと話しているときに、「どんなことを言われたら辛いか」という話題になりました。Aさんは他人の悪口を言わない上品な方です・・・が・・・ついポロリと心の奥から言葉がこぼれ出てしまったのです。

 「そうですねぇ・・・私が苦手なのは『悪気はないのだから』って慰められることかしなぁ・・・」

 誰かの言葉や行動にAさんが不快になったり、辛い思いをしたとき、第三者が「そりゃ、あなたの気にしすぎ。あの人だって悪気があって言ったんじゃないし。」と慰められると、辛さが倍増するのだそうです。

 確かに、「悪気はない」発言なら、それを受け止めたAさんの考えすぎ、早とちり、誤解・・・ということになり、Aさんが素直に受け止めれば、もしくはおおらかに受け止めれば問題はなかった・・・ということになりますよね。

 家庭内のもめごとの時に、特にこの「悪気はない」が出てくるような気がします。「お姑さんも悪気があって言ったわけじゃないから、そう気を悪くしなくても・・・」で問題を終わらせてしまおうとすると、もめごとはけして解決せず、根っこからじわじわと腐ってくることになりかねません。

 追い打ちをかけるように、「あなたの為を思って言ったのに・・・」が加わると、よけいに拗れてしまうことも!

 仏教では、言葉は非常にパワフルなものだと考えています。日本の言霊信仰も同じですね。悪気があろうとなかろうと、言葉が人を傷つけてしまうことは多々あります。一度発せられた言葉の影響力は、「悪気はなかった」などという絆創膏では治らない深い傷をつけてしまうのです。

 Twitterやラインなど、短い言葉で短時間のうちに、十分に考えること無しに発言することが増えています。一度ネットに書き込んでしまえば、もう取り消すことはできません。その恐ろしさを時には立ち止まって考えてみてはいかがでしょう?

 家庭内の会話でもそうです。気軽にやりとりするからこそ、そして気心が知れていると思うからこそ、時にはじっくり時間をかけて、状況や相手の気持ちを思いやってから発言すべき場合もあるのです。

 「悪気はない」という言葉を使ったときには、特に相手の反応に細かく気を配りたいものです。

◎今日の写真は京都の佛陀寺の本堂の荘厳飾りです。

生きることは苦しみを伴う。しかし、仏の教えを聞く稀有な機会も・・・

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 仏教の教えの根本には、「生きることは苦しみを伴う」という深い認識があります。私たちは苦しみ多い生を歩んでいるというのです。しかし、仏教は人の命を「得難いもの」と肯定的にとらえています。

 仏教も古代インドに広くいきわたっていた「輪廻転生」の思想を受け継いでいます。私たちは今まで何度も何度も繰り返し生まれ、死にしてきたのです。その輪廻の中で、人間に生まれる機会はめったにやってきません。大海に浮かぶ小さな木片に、水面に浮かびあがってきた亀が頭を閊えさせてしまうほどの稀有の事態なのです。

 お釈迦さまの教えを聞くことができるのは天界にいる天人と人間界に生まれた人間だけだそうです。私たちは今、大きなチャンスに恵まれているのです。

 『ダンマパタ』という仏典には「人に生まるるは難く、いま生命あるは有り難く、世に仏あるは難く、仏の教えを聞くは有り難し」とあります。

 せっかく人間に生まれたのですから、どうぞ生きている間にお寺へ行き、お釈迦さまの教えにご縁を結んでください。ぜひ、この「有り難い」機会を生かしましょう!

 心が苦しみで満ちているときこそ、仏の教えに出会うチャンスです。命を大切にし、穏やかに生きる智慧に出会えるのです。

 近くのお寺で法話やお説教の会があったら、ぜひ参加なさるのをお勧めします。ほとんどのお寺は檀家さん以外の方も歓迎してくれるでしょう。

 お釈迦様は対機説法といって、教えを説く相手の状況や能力、性格などに合わせてさまざまな説き方をなさったそうです。あなたの生き方に自然に寄り添い、教えを説いてくださる僧侶の方にきっと会えることでしょう。宗派にこだわらずお寺へおいでになるのがおすすめです。

 慈雲寺でも、毎月「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を開いています。私のお話しは拙いものですが、仏教へのご縁を結ぶきっかけの一つになることができればと願っています。

 1月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は29日の日曜日、10時から行います。もちろん、どなたでも歓迎いたします。

◎今日の写真は名古屋市立水族館でみたクラゲです。私はふわりふわりと泳ぐクラゲを見るのが大好きです。

他人を貶めることで、自分を「上げる」ことはできない。

「侮辱は侮辱を招く。暴力は暴力を引き起こす。有力者が自らの地位を悪用して他者をいじめれば、私たち全員にとって負けになります」

ゴールデン・グローブ賞の授賞式での、メリル・ストリープの言葉です。

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 メリル・ストリープの発言は、トランプ次期大統領の一連の差別や他のグループへの嫌悪を煽るような言論に対する批判のようです。

 人の行為の中で最も醜いものの一つは、他を貶めて自分を「上げよう」とすることです。「〇〇国人は〇〇だ。」と決めつけ、「それに比べて日本人は優れている」というような考え方です。もちろん日本には優秀な人はたくさんいるでしょう。しかし、それは発言者が優秀かどうかとは無関係です。〇〇国の人にも優れた人はたくさんいるはずですし・・・他人を差別したり、蔑んだりしても、自分の価値が上がるわけではありませんから。

 他を侮辱しても、侮蔑が返ってくるだけです。恨みを恨みでは解決できません。暴力を暴力で圧倒しようとしても、根本的な解決にはならないのは、今も各地で起きている紛争を見れば明らかです。

 アメリカがトランプ大統領のもとで、どのようは方向に進むのかまだ不透明なところはたくさんありますが・・・アメリカの国民が彼の扇情的な言動に惑わされないことを祈らずにはいられません。

◎今日の写真は大阪の阿倍野区で見た写真館の看板です。なんだか、この写真屋さんで記念写真を撮って欲しくなりますね。

二分の一成人式と二分の三成人式?!

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 もともと成人式というものにあまり興味がなかったせいか、成人の日が過ぎていたことに今日気が付きました。お寺の日常からすると、土日、祝日があまり関係ないので、忘れてしまうことが時々あるのです。

 私が成人式に興味がないのは、人がいつ大人になるかは、個人差が大きいと思うからです。もちろん、法律や選挙権など、基準を決めなければならないことはあるので、20歳又は18歳で「成人」とするというのは仕方がないでしょう。しかし、本当の大人、つまり自分の足で立ち、自分の意思で行動を決めて実行できるようになるのは、それぞれ違うと思います。恥ずかしながら、私は本当の意味で自立した人間になれたのは30歳過ぎてからかも・・・

 さて、その成人式の記事を読んでいて、「2分の1成人式」というのがあることを知りました。10歳の小学生に「大人への道の半分」ということでイベントをする学校があるというのです。それぞれの親への感謝の手紙を書いたり、自分の名前の由来を調べたり、10年の成長過程を示す写真や物などをそろえて見せたり・・・う~ん・・・一見良いことのようですが、家庭の事情は無視?なのかと疑問に思えます。

 日本では、どの子供も「仲の良い父母の揃った、温かい家庭」で育つと思われているのでしょうか?条件の整った家庭で育つ子供ばかりではないでしょうに・・・親に虐待されている子供もいるかも??

 いろいろと思いがあって、一概に「心温まる親子交流のイベント」という風には受け止められないなぁ・・・と思っていました。すると、今朝、ラジオを聴いていたら、なんと「2分の3成人式」をやるという話が出ていました。

 何か聞き間違えたのかと、皿洗いの手を止めてラジオに集中してみると、どうやら「成人式から10年たった30歳の人」を対象にした大垣市役所のイベントのようです。

 市の公式サイトによれば「成人式から10年が経過し、仕事、結婚、出産や人間関係等、人生において多くの経験を重ね、自覚と責任を持った本当の意味での大人になる世代である30歳を対象に、地域とのつながりの再確認、新たな仲間や希望を発見するイベントねて集まりましょうと呼びかけています。」だそうです。

 このイベント、興味あるなぁ・・・いったいどんな人が「参加してみよう!」と思い、いったいどんなイベントなら「地域とのつながりの再確認、新たな仲間や希望を発見」できるのでしょうか?いや、純粋に好奇心を刺激されます。

 どんな服装で来るのかしらん??

 30歳なら、それぞれの人生の方向が一番バラバラな時期かもしれませんね。既婚、未婚、子供の有る無し、仕事などなど・・・共通の話題をどうやって見つけるのかも興味深いところです。

◎今日の写真は和歌山市の寺町にある護念寺です。本堂の前に大きな蓮の花が!極楽に生まれるときは蓮の花のうてなの上に出現するとか。なんだか極楽気分が味わえそうです。

 

再び日記を書き始めました

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 年の始めですから、いろいろと「今年の決意」などを考えていました。でも、年が明けて数日しかたたないのに、もう挫折して我ながら呆れるもの多数。でも、日記の再開はなんとか続いています。

 私は旅行ライターの仕事を始めてからずっと日記をつけていました。いろいろ試行錯誤した結果、NOLTYの3年日記にたどり着きました。一つの日付が三つに分かれていて、三年間を比較できるようになっています。

 「ああ、この仕事をしてから、もう一年かぁ・・・」とか「あれ、この料理を食べたのは2年前?」なんていろいろ思い出したりして、なかなか楽しい。書き込める文章量も限られているので、業務メモみたいな感じになってしまうのも良いのです。あまりその時の感情を細かく書くのではなく、記憶を呼び覚ますような「キーワード」を書くだけにすると、思い出がかえって鮮やかによみがえります。でも、「キーワード」の意味をすっかり忘れてしまって、何を書きたかったのか首をかしげることもありましたが・・・。

 しかし、去年の後半はほとんど白紙。何か気持ちの中にわだかまりがあって、記録したくない・・・という思いがあったのかもしれません。単純にめんどくさくなっただけかもしれませんが・・・

 ともかく、日記再開です。どこまで続くかな?

 今年は「継続は力なり」という言葉を大切にしたいと思っています。

◎今日の写真は徳川御三家の一つ、紀伊徳川家のお城です。天守閣は国宝でしたが、第二次大戦の和歌山市大空襲で炎上してしまいました。しかし、市民の熱意で戦後まもなく再建されました。お城の中で、その再建工事の古いフィルムが上映されています。ほとんどが手作業!作業をしている人たちはなんだか痩せていて・・・この工事が戦後の雇用促進事業の一つだったのではと想像してしまいました。