慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

戒名(法名)における性別について

f:id:jiunji:20171205205903j:plain

 今日、とても興味深い記事を読みました。性同一性障害という自己認識を持つAさんは、熱心な仏教徒です。Aさんは、生きている間に受戒し、戒名を授かりたいと願っています。

 しかし、Aさんは肉体的には女性ですが、「自分は本質的に男性だ」と感じています。女性の肉体に男性の魂が囚われていると感じているのです。親に付けてもらった名前は仕方がないものの、自分が肉体から解放された後にも残る名前は、男性のものが欲しいと僧侶に相談を持ち掛けたのです。

 その記事には、相談を受けた僧侶がどういう結論を出したのかは、はっきり書かれていませんでした。「こういう相談があった。」という例として出し、私たち僧侶全体に問いかけているのです。

 戒名は信女・信士とか、居士・大姉とか、性別が明らかにわかるものがほとんどです。浄土真宗では、「釈〇〇」という法名を授けるのですが、かつては女性には「釈尼〇〇」とすることが習わしだったようです。しかし、現在は男女の区別なく、「釈〇〇」もしくは「〇〇院釈〇〇」とする例がしばしばあります。

 私は、全てを「釈」で統一する、すなわち、全ての人が釈迦の弟子として極楽へ迎え取られるという考え方はとてもスッキリすると思います。

 しかし、私は慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の伝統である「空号」を入れた戒名を大切に考えています。戒名はその人の人生を象徴する意味も大きいので、シンプルがベストとは思えません。もちろん、誰にでも院号、空号をつけて仰々しくせよというのではありませんが・・・・

 さて、私がもしAさんのようなご相談を受けたなら、居士や禅定門など、通常男性に授ける戒名を考えると思います。ただし、生きている間に戒名を受けようとするなら、自分が性同一性障害を抱えていることを明確にカミングアウトすることをお勧めするでしょう。

 仏教は執着、こだわりからできるだけ離れることが、穏やかな暮らしの基本だと教えています。戒名もこだわりの元であってはなりません。生きている間に僧侶とのご縁ができたのなら、十分に話し合うことが大切です。

 極楽浄土へ迎え取られたら、性別は関係なくなるはずです。仏様も菩薩さまも、性別はないのですから・・・戒名の「性別」にこだわるのも、また執着です。

 もし、戒名のことで御心配があるなら、まず菩提寺の和尚様と相談してください。もし、僧侶とご縁のない方でしたら、慈雲寺においでいただいてもかまいません。お気軽ご相談ください。

◎今日の写真はウズベキスタンの焼き物です。シルクロードを旅した茶碗かもしれませんね。

振り返れば山茶花

f:id:jiunji:20171204220938j:plain

 昼間は青空が見えたので、今夜も昨夜のような美しい月が眺められるかと楽しみにしていたのに・・・だんだん雲が広がってしまいました。

 でも、今月の「満月写経の会」には三人の方に来ていただきました。本堂は寒いですが、かえって気持ちが集中できる気がします。

 不足やマイナス面ばかりにとらわれていると、たくさんのことを見逃してしまいます。本堂の寒さを「集中力」に振り向けてみれば、これはこれで味わいになっていくのです。

 冬の寒さは、40年間、カナダのセントラルヒーティングに慣れてきた私には、正直少し哀しくなります。しかし、日本の冬には美しい青空があります。私が住んでいたカナダの西海岸は、暖流のおかげでそれほど寒くはなりませんが、冬の間は毎日のように雨が降るのです。温暖な気候とたっぷりの雨のおかげで、温帯雨林の素晴らしい森が広がっているのですが・・・やはり青空は恋しい。

 慈雲寺に赴任してから、冬の朝日と青空の美しさは、何度も何度も感動しました。そして、冬に咲く花の多さにも驚きます。裏庭の菊は、12月に入っても頑張っていますし、今日は山茶花が可憐に咲いているのに気が付きました。白椿の蕾も膨らんでいますし、盆栽の梅もお正月には咲いてくれそうです。

 穏やかな心で周囲を見回せば、美しいものに世界は満ちているのですね。怒りやこだわりに心ががんじがらめになっていると、なかなか気が付けないものですが・・・

 

12月の満月は12月4日です。満月写経の会のお知らせと慈雲寺へのアクセス

f:id:jiunji:20171203091946j:plain

 慈雲寺では、いつでも本堂で写経をしていただける用意がしてあります。気持ちを落ち着けたいときや、何か特別の御願いがあるときなどに、お気軽に写経をなさってください。庫裏にお声をかけて下されば、写経の心得のお話しなど、喜んでさせていただきます。

 また、毎月の満月の夜には、写経の会を行っています。皆で『般若心経』を読経した後、少しずつその内容についても学びます。

 12月の満月は12月4日です。読経は夜7時半から行いますが、何時においでになってもかまいません。

 慈雲寺の写経の会は、「自分の気持ちにゆったりと向き会う」ことを大事にします。字の上手下手は問題ではありませんし、気持ちがどうしても落ち着かないなら、お月さまを眺めるだけでも結構です。

 慈雲寺の本堂には十分な暖房がありませんので、暖かな服装でおいでください。

◎慈雲寺への公共交通のアクセス
 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。所要時間は約40分
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます

『旅行読売』の新年号・・・ちょっと恥ずかしい

f:id:jiunji:20171201151859j:plain

 昨年から、毎月『旅行読売』という雑誌に連載記事を書かせていただいています。旅行ガイドブックのお仕事が主だった私には、長期の連載というのは初めてです。見開き2ページの記事で、近畿地方のご利益で知られるお寺や神社を取材させていただいています。有名な社寺も取り上げますが、今まであまり雑誌などに取り上げられていない所を訪ねています。

 北米の仕事がほとんどだった私にとっては、日本の社寺を取材するのは、とても新鮮ですが、勝手が違う・・・とおろおろすることも少なくありません。しかし、優秀な編集者の方が担当して下さるので、なんとか毎月続けていくことができています。

 さて、先月末に発売された1月号には、通常の連載の他に、京都の泉涌寺境内の塔頭寺院をめぐる記事のお仕事もいただいています。京都おもてなし大使のライターの方と御一緒に巡っていくのですが、若い優秀なライターの方と御一緒できて、とても勉強になりました。

 しかし・・・その方と一緒に写真にも登場・・・う~ん・・・かなり恥ずかしいです。でも、とても楽しいお仕事だったので、それが写真にもしっかり写っています。さらに恥ずかしさ倍増。

 というわけで、昨日からこのブログのアクセス数がいつもの3倍近くになっています。記事を読んだ方が検索しているのかしらん?う~ん

 1月号は、今、書店に並んでいますので、お買い求めいただければ有難く存じます。

◎今日の写真は、1月号の取材でおたずねした護王神社の猪です。

他人は自分の代わりにはならない

f:id:jiunji:20171129195736j:plain

今日の「お釈迦さまの御言葉」

 他人の過ちを見てはいけない。

 他人がしたこと、しなかったことを見るな。

ただ自分がしたこと、しなかったことだけを見るがいい。(法句経より)

 

 仏教は悪因悪果、善因善果・・・全ては自業自得と教えています。自業自得というと悪いことばかりに使われがちですが、本来は善き行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が「業」として積み重なっていくという教えなのです。

 「あの人は悪いことばかりしているのに、けっこう得をして楽しく暮らしている」と思うことがあるかもしれませんが、その人が受け取る結果や、積み重ねていく「業」の結果はなかなか外からはわからないものです。

 ですから、他人の行いの良し悪しを論ずるのではなく、自分がしたこと、しなかったことだけに注意を向けるべきだとうのが、お釈迦様の教えです。

 私たちは一見「善行」に見える行動をしていても、その動機は「ひとから良く思われたい」とか「褒められたい」とか、「何か利益につながるかも」といった、不純なものであることが少なくありません。

 自らを振り返って、自分の行動が利他の気持ちから発するものであるかどうかを考えてみましょう。

 しかし、私たちは末法に生きる凡夫。なかなか純粋に利他行に生きることはできません。阿弥陀様の御目当ては、そんな私たちなのです。一切の条件をつけずに、私たちをこの身このままで救ってくださるのが、阿弥陀仏の願いなのです。

◎今日の写真は郡上八幡の街角の小さな秋です。

白鵬の「万歳三唱」に違和感

f:id:jiunji:20171128174550j:plain

 先週、五日間、和歌山県みなべ町周辺の寺院へお説教に呼んでいただいていました。とても良いお湯の温泉のある国民宿舎に宿をとっていただき、なんだか湯治みたいでした。もちろん、まだ説教師として新米な私はずっと緊張が続いていたので、そうのんびりした気分にもなれなかったのですが・・・

 和歌山にいた間、時々テレビを見ると、前回のブログにも書いたように、連日相撲力士による暴力問題がニュースに出ていて、ずっと違和感が続いていました。そのピークが、一昨日の白鵬の優勝挨拶。最後に「みんなで万歳しましょう。」と言い出したではありませんか!お客のほとんどが興奮した様子で万歳三唱していたのも、とても違和感を感じました。

 翌日、ロビーにあったたくさんの新聞を読んで、各紙がどう報道したのかを見たのですが、ほとんどはあの万歳三唱を無視するか、流れ的に「まあいいか」ぐらいの扱いでした。

 しかし、スポニチだけは、「まるで、問題が解決したかのような万歳三唱」と批判的で、相撲の専門記者によるコラムでは、「万歳三唱を強要するのは横綱としての品格に欠ける」とはっきり非難していたのが印象的でした。

 私は、白鵬が自分から万歳三唱を思いついたとは考えにくいのです。いったい誰が、「シャンシャンで手打ち」みたいな雰囲気を作ろうとしていたのでしょうか。

 万歳三唱がこんなことに利用されるのも気持ちが悪いことです。

 メディアの「貴乃花がかたくなだから問題が大きくなった」というような報道姿勢も気になります。

 これはあくまでも、暴力行為だからです。リンチといっても良いような状況であったことも少しずつ明らかになっているようですね。

 旅行専門とはいえ、私も報道をする側の人間です。スポーツメディアの妙な忖度は、報道全体の信用を落とす大きな問題だと思います。

◎今日の写真は、紀伊勝浦で見た「蔦のからまる西洋館」です。

 

仏教は完全な非暴力

f:id:jiunji:20171125162747j:plain

  このところ、連日相撲力士の暴力問題がテレビや新聞に報道されています。なぜか、報道や評論家の論調が、「問題を長引かせているのは、被害者の力士とその親方」という響きなのが気になります。

 この問題が相撲協会内部の権力争いと深く結びついており、貴乃花が「かたくなに」協会の事情聴取を拒否するから、問題が解決しない。お互いにゆずりあって、早く解決すべきだ・・・・と、親切そうに語る評論家などが出ているのが、どうもすっきりしません。

  さらには、「貴ノ岩が先輩に失礼な態度をとったので、日馬富士が制裁した」とまで言う評論家がいたのには、さらに呆れました。

 相撲力士であろうがなんであろうが、聴覚に障害が残ったり、頭蓋骨に損傷が起きたりするほどの暴力が許されて良いわけがありません。

 平手で殴ったのなら「しつけ」で、ビール瓶なら暴力だというわけではありません。人を殴るのは、何であれ暴力です。

  仏教では、あらゆる暴力を否定します。怒りに任せて、暴力をふるっても、何も問題は解決しないし、良き「躾け」になろうはずもないからです。

 さらに、酔ったうえでの暴力なら、なおさら弁解の余地はありません。

 加害者の力士も、それを弁護する協会も、恥ずべき態度で、深い反省が必要です。相撲は神聖な神事であることを忘れてはならないでしょう。相撲は力のぶつかりあいだからこそ、力士は相撲以外でその「力」をふるうべきではないのです。穏やかな、思慮深い人間が、力を発揮するからこそ、神聖さが生まれてくるのですから・・・

 ならず者の集団が、リンチも容認する環境で、土俵に上がっても、本来の相撲の醍醐味は出てこないと思うのです。

 仏教は、怨みで怨みは絶対に解決できない。暴力でもの事を解決することはできないと考えます。

紀伊勝浦のレトロな郵便局。ポストも昔のスタイルだと良かったのに!