慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

阪神・淡路大震災の犠牲者を悼む

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 阪神・淡路大震災から23年の年月が過ぎました。あの日のことは、強く心に残っています。たまたま新年の里帰りで東京に戻っていた私は、震災の被害が広がっていく痛ましいニュースを見ながら、カナダから「すぐに帰ってこい。仕事が忙しくなるぞ!」という電話を受けていました。

 当時、私はカナダの森林産業関係の協会の通訳の仕事をすることがしばしばありました。協会の人々は、この震災で日本からの住宅用木材の買い付けが飛躍的に増えるだろうと考えたのです。私は新聞や最初に出版された写真冊子(震災関連の報道写真を集めた冊子)を抱えて、すぐにカナダへ戻ることになりました。

 あの時、僧侶として被災地への救援活動に参加した人もたくさんいました。犠牲者の方々の鎮魂や残された方々の心のケアなど、宗教者としてやるべきことはたくさんあったと思います。

 しかし、私の選択は「住宅用の木材を必要としている人たちに、できるだけ早く届けられる手伝いをすることが、私のできることのベストだ」でした。

 協会の関係者は、私が持ち帰った写真を精査し、多くのカナダ式のツーバイフォー住宅が地震に耐えたことを確認していました。「耐震を強調することで商売になる!」と喜んだのか、「自分たちが伝えた技術が役に立った。」という純粋な喜びだったのか・・・どちらも正直な気持ちだったと思います。

 私は当時、僧侶の資格を得たばかりでした。通訳やライターで走り回るだけで、僧侶として自らを深めようとしてはいませんでした。自分があのとき、本当はどうすべきだったのか・・・犠牲者の方々への御供養の読経をさせていただきながら、心が重くなっていきました。

◎今日の写真は、神戸の長田区になる長田神社の境内です。この地域は神戸市内でも、特に被害が大きかった地域と聞いています。昨年、旅行雑誌の取材でここを訪れました。当時、家を失った人々のために、この神社は信徒会館を開放したと聞いています。

境内には震災に負けることなく、大きく枝を広げた樟がたくさんありました。

 

 

花替えの日は楽しいが、煩悩も湧いてきます

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 仏前のお花や慈雲寺の歴代住職の墓などに手向けた花を替えるのは、住職としての役目の中で最も楽しいことの一つです。とりわけ花のお供えをいただいた時は、それをどう組み合わせて活けようかと色々考えるのは楽しいことです。

 でも、楽しいだけではなく、よけいな煩悩も湧いてきます。

 例えば、花を活ける喜びの奥底に少し「黒い」思いもあるような気がします。どの枝を切り、どの花を生かすかは、私の思いのまま。少々乱暴に枝を切って行くときに心に湧いてくる、命をもて遊ぶのに似た残酷な喜び(?)のようなものを否定しきれないと思うのです。仏花は枝をたわめたりはしませんが、生け花で無理やり枝を形作るというのも、なんだか「思いのまま」にする傲慢な喜びがある気がします。

 また、もう一つの花替えのたびに湧き上がる煩悩は、「好きな時に好きなだけ花を買い替えられたらいいのに・・・」という物欲です。寒中はお花も長持ちしてくれますが、真夏の日などは数日持たずに花が枯れてしまうことも・・・しかし、今の慈雲寺には、しばしば花を替えるのは贅沢・・・なかなか思うようにいきません。ときおり、「これで阿弥陀様にお花を供えてください」とおっしゃってお布施を上げて下さる方がいたり、「うちの庭に咲いた菊です。」とお寺に持って来て下さる方があったり・・・花のお供えはとりわけ嬉しい。

 僧侶にとって物欲は修行の大きな妨げです。私は子供の時から、あまりものを欲しがったことがありません。車とかブランド品などにも興味がなかったし、家も欲しいと思ったことがありません。まあ、本屋さんでお財布と相談しないで、どんどん買ってみたいという「夢」はありますが・・・

 となると、この花替えのときに湧き上がる物欲・・・これは「私の物欲」ではな「仏様へのお供え」と弁解してみても、「もっと思い切り花を活けたい。頻繁に花替えしたい!」という気持ちは物欲ですよね・・・

 ああ、松の剪定もして欲しいし、坪庭の剪定も・・・あら、欲が止まらなくなりそうなので、このへんでやめておきましょう。

◎今日の写真はカナダのビクトリアで見たシャクナゲです。

僧侶に呼びかけるときは何と言いますか?

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 「あなたのことは何とお呼びすれば良いでしょうか?」

 今日、お寺に来られた方が、遠慮がちにこう私に問いかけました。

僧侶に呼びかけるときは、何と言ったらよいのでしょう?この辺りだと、「おっさん」(アクセントは最初の「お」に)とか「おっさま」とか呼びかけるのが多いようです。これは「和尚さん」から来ているのでしょうね。

 「ご住職」とか「ご住職様」という言い方もありますね。大きなお寺の住職の場合、「方丈様」という呼びかけ方もあります。

 慈雲寺に英語を習いに来てくれている可愛らしい小学生は、私のことを「お寺さん」と呼びます。どうやら、この子は私の名前は「おてらさん」だと思っているようです。おそらく、彼女の家の大人たちが「お寺さん」と言っているのを聞き覚えたのでしょう。愛らしい声で呼びかけられると嬉しくなります。

 でも、尼僧として一番自分の気持ちにしっくりくるのは「あんじゅさん」という呼びかけです。これは小さな庵の主、庵主という意味です。なんだか、ひっそりと暮らしている尼僧という雰囲気があっていいなぁ・・・・・。「和尚さん」とか「おっさん」と呼ばれるよりいいです・・・ま、肩書とか看板とかにこだわってもしかたがないので、何と呼ばれても良いのですけれど。

 ちなみに、宗派の本山のトップにおられる方は「御法主」などの他、宗派によって特別な呼称がありますので注意なさってください。「御法主猊下」というような敬称も大切です。

◎今日の写真はカナダの西海岸でよく見かける野草です。

 

お逮夜の大切さを思い出してみませんか?

 

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 先日、知人や僧侶の方々とお話ししていて、「お逮夜」という言葉が出てきました。「お逮夜の習慣ももうこの辺りではなくなったねぇ・・・」と一人が言うと、「いや、まだ私のお寺の周りには残っていますよ。」という方もいました。

 お逮夜とは、一般的には、四十九日や一周忌、祥月命日などの特別な供養の日の前日などに、僧侶を招いて読経をしてもらい、集まった人々に食事などをふるまう宗教的な慣習です。やり方は地域によってずいぶん違いがあるようです。

 慈雲寺の周辺の方にうかがうと、一周忌や三回忌などの法要の日は、親族だけを招いておこなうけれど、その前日、お逮夜の日はご近所や知人、友人などが集まってくださるのだそうです。

 私は東京で育ち、「お逮夜」という言葉は知っていても、実際に体験したことはありませんでした。しかし、このご近所の方や友人、知人に集まっていただくお逮夜というのは、とても良い習慣だと思いました。

 故人を偲ぶ気持ちは血縁者だけに限りません。友人やご近所の方々を失ったとき、その人を偲んで、ご縁の有った方々と思い出を語り合い、故人を供養したいという気持ちになるのは自然なことだと思います。

 法事の前日に、多くの人を接待するのは大変かもしれませんが、本当に簡単な軽食や茶菓を用意するだけで十分でしょう。来て下さる方にも「平服で」とお知らせして、気軽に来ていただくと良いでしょう。

 ご近所や友人、知人の口から、故人の思い出話を聞くのは、残された家族にとって、本当に慰めになります。そこから、新しい縁も生まれてくることでしょう。

 慈雲寺の先代の一周忌の時にも、近隣の僧侶や総代、親族の方々をお招きした「正式な」法要の他に、ご近所の方々をお招きして簡単な食事会をしました。その時には「お逮夜」というような意識はなかったのですが、先代様の思い出話に花がさいて、楽しい会になりました。

 七回忌の時は、ぜひお逮夜をしてみようと思います。

今日の花はカナダの西海岸に咲いていた野草です。

 

寂しくて110番通報するくらいなら、お寺へおいでませ!

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 今日は1月10日で、110番通報の日だそうです。今日の中日新聞によると、110番通報の二割は緊急性のない電話。「トイレが詰まった」と電話してくる人もいるらしい。

 トイレがあふれだしたら、パニックになって110番したくなる人もいるかも??しかし、中には「寂しいから」と電話してくる人もいるらしい・・・

 う~ん。さみしいなら、お寺にいらっしゃいませんか?阿弥陀様は、何の条件も付けずに、全ての衆生を救ってくださるという誓いをたてて仏になられた方です。阿弥陀仏のお慈悲に気が付けば、もう私たちは「孤独」とは無縁です。

 お寺にきて、阿弥陀様の前で祈ってみませんか?穏やかな、本当の安らぎが感じられるようになりますよ。草引きやお寺の掃除などを手伝ってくださるなら、さらに嬉しい。人の為に何かすると、孤独ではなくなるものです。ましてや仏様への御供養のための身施(自分の体を動かして、他の人に施す布施の行)をすることで、心もゆったりと満たされます。

 心の中に澱んでいることがあるなら、話を聴いてくれる和尚さんを探してみませんか?お寺や僧侶と良いご縁を結ぶことによって心が和らいでくれば、家族や友人、知人との関係も変わってくるのではないでしょうか?

 寂しくて、110番するくらいなら、家から出てまずはご近所のお寺まで散歩してみることから始めてみませんか?

◎今日の写真はカナダのビクトリアにあるブッチャート・ガーデンのバラ園です。

『ブッダ最後の旅』は心に残る物語

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 前回のブログで、「涅槃図」のお話しをしました。お釈迦様は2500年前にインド亜大陸に生まれ、悟りを開かれ、各地で説教を繰り返して多くの人々を導き、そして涅槃に入られた方です。原始仏教の仏典には、お釈迦様の生涯について、あまり詳しく述べたものはありません。しかし、お釈迦様が涅槃に入られる直前、直後の状況については、『大パリニッバーナ経』という仏典に詳しく述べられています。

 お釈迦様が、どのように悟りを開いた人間として最後を迎えられたのか、そして周辺の人々はその時、どのように反応したのか・・・まさに「涅槃図」に描かれた状況がくわしく述べられた経典なのです。

 仏教学者の中村元先生が丁寧に現代語訳にしたものが岩波書店から出版されています。Amazonなどでも購入できますので、ぜひ読んでみることをお勧めします。

 お釈迦様が自分の「老い」や「死」にどう向き合っていたのかが、ゆっくりと心にしみてきて、お釈迦様がより身近に感じられることでしょう。

◎今日の写真はカナダで見たシャクナゲです。

「釈迦金棺出現図」を拝みに東京へ

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京都国立博物館蔵)

 国宝の「釈迦金棺出現図」が上野の国立東京博物館に展示されていると聞いて、大急ぎで東京へ行ってきました。この絵は、京都の国立博物館に所蔵されているのですが、めったに展示されません。昨年、京都で行われた「国宝」展の時には展示されていたのですが、私が行った時は入れ替えで拝むことができなかったのです。

 私はお釈迦様の入滅の時の様子を描いた、いわゆる「涅槃図」が大好きです。仏画なので、構図や描かれている人、動物、植物などは、お経に基づいていますから、どの涅槃図でも、基本は同じです。しかし、作者によって、細かな所が違ったり、人々の表情が違ったり、画家の解釈の違いが出て、とても面白いのです。京都のお寺では、涅槃会の時期に涅槃図を御開帳するところが多いので、よくあちこちにお参りに行きました。

 さて、今回の「釈迦金棺出現図」も涅槃図の一種なのですが、他とは大きく違うところがあります。通常の涅槃図では、お釈迦様は木立の間に体を横たえて、静かに涅槃に入られています。お釈迦様が涅槃に入られることを知った母親の摩耶夫人が忉利天から降りてくるのですが、入滅に間に合いません。一方、この「釈迦金棺出現図」では、お釈迦さまは、すでにお棺の中に入ってしまわれていました。しかし、母の深い嘆きを知ったお釈迦様は神通力をもって、お棺から再び起き上がり、母親に、この世の無常について説法をしているところが描かれているのです。

 この構図は非常に珍しいもので、お釈迦様の御気持ち、摩耶夫人の気持ちが画面からあふれ出るような気迫が感じられます。周辺の弟子や信者の人々が驚愕し、そして深く感動している様子も見てとれます。

 そして何より、お釈迦様の体から放たれる光の素晴らしさ!

 合掌しないではいられない正に国宝にふさわしい仏画でした。

 1月28日まで、常設展の国宝展示室に展示されていますので、機会があったら、ぜひ上野にお出かけください。