慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

4月8日は花まつりです。お釈迦様のご生誕を祝いましょう!

f:id:jiunji:20180401201310j:plain

 クリスマスもハロウィーンも、そして今日のイースターですら、いろいろと話題になるのに、お釈迦さまの御誕生日はいかにも地味(?)ですね。

 でも、春爛漫の4月8日は花まつり。お釈迦様の生誕を喜ぶ日です。慈雲寺にも、小さな誕生仏とお堂がありますので、花で飾ってお祝いしたいと思います。甘茶を誕生仏にかけて、お子さんの健やかな成長を祈り、心の豊かさを育むために、ぜひお参りください。

 昨年は、お参りして下さったお子さんのためにお菓子を用意したのですが、食べ物に制限のある子供も少なくないようですので、今年は交通安全のお守り付きリフレクターをプレゼントすることにしました。リフレクターは、車のライトなどを反射して運転手に気づかれやすいようにするためのもので、ランドセルやカバンに付けてください。

4月8日10時から短い法要をいたしますが、お参りはいつでもしていただけます。お気軽におこしください。

 

3月31日は満月です。満月写経の会のおすすめ

f:id:jiunji:20180330125517j:plain

 慈雲寺では、毎月、満月の夜にお月見を兼ねた写経の会を行っています。ご近所の桜も満開ですから、満月の夜桜見物がてら、写経を体験してみませんか?

 今月は3月31日7時半より読経を行いますが、9時過ぎまで本堂を開放いたしますので、何時にいらしても結構です。

 皆で『般若心経』を読誦した後、心経の内容について、毎月少しずつ御一緒に学んでいきましょう。

 写経は、心を鎮め、自分と素直に向き合える良いきっかけになります。字の上手下手は問題ではありません。綺麗に書くことより、自分の思いや今の心境を感じながら書くことが大切です。

 写経に必要な道具は全て用意してありますので、手ぶらでお気軽にご参加ください。ただし、筆ペンを使いますので、筆で書写したい方はご自分の用具をご持参ください。

 慈雲寺で行われる宗教行事は全て無料ですが、仏さまへの御供養とお寺の維持のためにお気持ちを御喜捨いただければ有難く存じます。

◎慈雲寺への公共交通のアクセス

 慈雲寺には十分な駐車場がありませんが、写経の会の時はそれほど多くの方がおいでになるわけではないので、お車でおいでになっても大丈夫です。もちろん、バスもご利用いただけます。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。所要時間は約40分
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます。

和歌山県広川町周辺の寺院でお彼岸のお説教 Part3(時事問題と説教)

f:id:jiunji:20180329214744j:plain

 和歌山県へ巡教に行ってきました。Part1にも書きましたが、「巡教」というのは、私の属する西山浄土宗の御法主猊下の「おことば」を檀信徒の皆さんにお伝えし、その解説をするのが役目です。

 当然、お説教の内容も「おことば」に沿ったものとなります。説教師にとって、説教の内容が、充実したものであり、聴いて下さる方々の心に長く残り、しかもできるだけ即効性のあるもの(聞いてくださっている方の悩みや苦しみが少しでも軽くなったり、解決への手がかりになったり・・・)であることが大事だと思います。

 お説教の中に自分の体験談を入れるのは、「現実味を増す」という意味で大切なことです。自分の悩んだこと、苦しんだこと、幸せに思ったこと、感動したことなどを通して、仏の教えを伝えられればと願っています。

 そこで問題になるのが、時事問題、政治問題です。今、新聞やテレビで話題になっていることをお説教に取り入れるのは、「聴衆の興味を引く」という点や、「話題の神泉さ」などの面で、非常に有効です。

 しかし、政治的な問題や社会問題に対して、自分の立ち位置をあまり明確にしてしまうのは宗教家としてどうなのか?という問題もあります。私はいつも「仏教徒としてどうか」、「お釈迦様、法然さま、証空さまの教えにてらしてどうか?」という面から、政治や社会問題を見ていきたいと思っていますから、そこを丁寧に説明すれば良いのでしょうが・・・

 巡教のお説教の中にそれを盛り込むのは、いろいろと微妙なものも多く、まだ自分の中で結果を出せずにいます。

◎今日の写真も白崎海洋公園周辺の海です。

和歌山県広川町周辺の寺院でお彼岸のお説教 Part2 (説教師にとっての‟ありがたいこと”)

f:id:jiunji:20180328095526j:plain

 前回に続いて、先週和歌山県でお説教の機会をいただいた時の感想です。

 

 どんな仕事や役割も同じでしょうが、「経験を積む」ということが上達、熟練に欠かせないことです。とりわけ、僧侶が説教師として研鑽を積んでいこうとする時、お説教師として寺院に招かれ、檀信徒の皆さんの前でお話しさせていただく経験は大切です。

 それぞれのお寺で、聴衆の数も年齢も、状況もまちまちです。大きなお寺の本堂がぎっしりになることもありますし、小さなお寺に10人足らずの方がいらっしゃるときもあります。人数が多い時は、隅々にまで話が伝わるように注意しなくてはなりませんし、少人数なら、それぞれの方の反応を細かく考察しながら、説教にアレンジを加えていけるようになるのが説教師の修行と言えるでしょう。

 今回の「巡教」では、大きなお寺から、山奥の小さなお寺まで、さまざまでしたが、皆、熱心に聞いて下さいました。

 説教師が経験を積んでいくとき、一番ありがたいのは、聴衆の皆さんからの反応です。巡教の時の説教師というと、伝統的には「本山から派遣された偉いお坊さん」というイメージが強かったので、感想というと、「本日はありがたいお話しをお聞かせいただいてありがとうございます。」というご挨拶を受けるだけで、実際のことははっきりしないことが多かったのです。

 しかし、私にとっては、褒めていただくのは嬉しいものの、本当は「ここがわかりにくかった」、「ここをもっと掘り下げて欲しかった」、「こんな話が聞きたかった」というような批判的な感想の方がありがたいのです。そういう反省材料こそが、説教師にとっては本当にありがたい「財産」になっていくのです。

 幸い、今回の巡教では、以前から顔なじみのご住職も多く、総代さん方とお食事を共にさせていただく機会も何回かあったので、率直な感想を聞かせていただくことができました。本当にありがとうございました。(つづく)

◎今日の写真も白崎海洋公園の写真です。この岩は石灰岩なので、浸食がとても面白い形に進んでいました。

和歌山県広川町周辺の寺院でお彼岸のお説教 Part1

f:id:jiunji:20180326204004j:plain

 お彼岸の間、和歌山県の広川町周辺の寺院に説教師としてお招きいただきました。

 僧侶は、教学の研究を中心とする学僧、儀式を司る法事師、そして布教のためのお説教の修練を中心とする説教師の三つの分野があります。もちろん、三分野ともバランス良く習得することが理想ですが、やはり向き不向きがあります。多くの僧侶は、三つの分野のどれかを選択して修練を積んでいきます。

 私は説教師の道を選んで、布教師会に属し、布教師研修所で研修を受けています。布教師の資格を取ると、「巡教」と呼ばれるものを行うことができます。巡教とは、毎年年頭に西山浄土宗の御法主猊下より発せられる「おことば」を持って、各地のお寺を巡り、「おことば」を檀信徒にお伝えして、その内容を説き示すお説教をすることをいいます。

 巡教は、各地の寺院が何ヶ寺かまとまって説教師を招きます。今回は、和歌山県有田市の広川町や湯浅町周辺の17の寺院に呼んでいただきました。お彼岸の期間中、7日間で17のお寺を回るのは、説教師としては、なかなかチャレンジングな体験です。しかも、巡教は御法主猊下のお言葉を伝達するのが主たる役割ですから、説教の形式も内容もきちんとしていることが求められていますし、教学的な裏付けもしっかりしていなければなりません。

 幸い、現在の御法主猊下は教学の第一人者でいらっしゃるので、1月に行われた「お言葉伝達式」では、猊下が直接「お言葉」の解説を集まった私たち布教師にして下さいました。そこから大きく外れないように、することが準備の第一歩です。

 お言葉伝達式の時の講義のノートを何度も見直して準備を始めたのですが、なかなか思うような原稿が書けず(私はお説教に出るたびに、原稿を書きます)、うんうんうなってばかり、和歌山へ出発する日まで原稿を十分に仕上げることができませんでした。

(つづく)

◎今日の写真は、和歌山県の白崎海洋公園の景色です。

残念ながら暫くコメント欄を閉鎖します。

f:id:jiunji:20180323094300j:plain

 このブログは、どなたでもコメントを残していただけるような設定にしています。コメントをいただくのは、いつでもとても楽しい!お返事が難しいようなコメントを残される方もありますが、それを考えるのも楽しみです。コメントはどのようなものでも、ありがたいもの・・・と、思っていたのですが、先週あたりから、謎のコメントが次々と現れるようになりました。

 コメントは英文で、他のサイトに誘導するような文章になっています。差出人の名前は毎回違いますが、文章やサイトは同じ。そのサイトををクリッするとどうなるのか試してはいませんが、正常なものとはとても思えません。気が付きしだい、コメントを削除してはいますが(通常はどのようなコメントもありがたいので、削除はしません)、このブログを読んでくださっている方が、間違えて誘導サイトをクリックしてしまうのが心配です。

 ということで、しばらくの間は、コメント欄を閉鎖することにしました。とても残念です。

 今朝のニュースでは安倍首相夫人が不適切なコメントに「いいね」をしているというのを問題にしていましたが、ホームページやツイッター、ブログは、なかなか難しいですね。

 このブログを見て、慈雲寺を訪れてくださる方もあり、ここに慈雲寺での暮らしやさまざまなお知らせを書くのは、とても嬉しいことだけに、今回の「謎のコメント」は残念です。

◎今日の写真は名古屋市能楽堂の舞台です。 

サリン事件の報道に思う

f:id:jiunji:20180320094957j:plain

 めったにテレビは見ないのですが、今朝は何となくリモコンに手を伸ばしました。最初に目に入ってきたのが、「サリン事件から、23年」というニュースでした。私はオウム真理教が社会に及ぼした影響、とりわけ宗教界に及ぼした影響を非常に重視しています。

 単なる勘違いした「聖者」に踊らされた人々とか、狂人、愚人とがいった評価で、「過去のもの」扱い、もしくは極めて特殊な例として軽視する宗教者が少なくないのは、非常に大きな問題だと思っています。

 オウム真理教の活動、なかでもサリン事件によって、「宗教は怖い」、「宗教は人の正常な判断を狂わせる」、「触らぬ神に祟りなし」という印象を多くの人たちに与えてしまったことは間違いないでしょう。それに対する宗教界の反応は鈍いものでした。「オウムは特殊、狂気」で片づけてしまい、なぜ、多くの若者がオウム真理教に引き付けられたのかについて、宗門、宗派としての考察をきちんと整理し、公表したところは、ほとんどないのが実情です。

 私は、宗教学者や宗門の教学を学ぶ人々の見解に非常に興味があり、今も書店や図書館で目にすると、読まずにはいられません。正直言うと、まだまだ私の理解は浅く、納得のいける状態ではありません。

 オウム真理教の信者は、今も形を変えて存在し、その数は増えているそうです。サリン事件を風化させないためにも、宗教者はオウム真理教を「過去のもの」にせずに、きちんと向き合うべきだと自らを省みています。

  サリン事件の犠牲者の方々のご冥福をお祈りし、心身に傷を負われた方々の後遺症が少しでも軽くなるようお祈り申し上げあげます。

◎今日の写真は、橿原神宮で見た「さざれ石」です。