慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

師僧を見送る

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 一昨日の深夜、電話がありました。私の二番目の師僧が遷化(亡くなられた)という知らせでした。私は、慈雲寺の先代さまの弟子にしていただく前に、二人の僧侶の弟子にしていただいていました。

 今は、自分の父親を師として出家し、お寺をそのまま受け継ぐ人が多いのですが、昔は、修行の一つとして多くの師に教えを受けるのは珍しくありませんでした。

 私の場合は、最初に僧侶にしてくださった上人が男僧だったため、「尼僧さんにお仕えしていろいろ教えていただきなさい。」と、大阪のお寺に送られたのです。

 私はこの二番目の師僧から7年間ご教導をいただきましたが、私が頑なで未熟だったために、なかなか意思の疎通ができませんでした。私の方は「なんて意地悪な!」と腹を立て、師僧の方は「生意気で、思いやりがない!」とイライラするという、僧侶としては何とも情けない状態でした。

 やがて、親類の方が、新しく弟子に入って下さることになり、私は新たなご縁をいただいて、慈雲寺の弟子にしていただくことになりました。残念ながら、大阪の師僧とは分かり合えないままの状態でした。

 しかし、私が慈雲寺の住職として日本へ戻ってきたころから、状況が大きく変化してきました。変化したのは、もちろん私の方で、大阪の師僧の思いや寂しさ、心細さなどが少しずつ想像できるようになってきたのです。

 ところが、師僧はそのころから認知症が進み、人の区別がなかなかしにくいようになってしまいました。師僧のなかから私へのもどかしい思いも消えていったようで、私の顔をみると嬉しそうに笑い、最後は「あんたみたいな人が弟子でいてくれたら良かった。」と言われてしまいました。

 それを聞いた時に・・・隨麗という不出来な弟子は師僧の記憶から完全に消えてしまったのかと、とても哀しい気持ちになりました。

 極楽には怒りも嫉みもありません。私のことも少しは笑いながら思い出してくれるかもしれませんね。

 今日は静かに、師僧を思って読経しようと思っています。

 

 

皆さまのおかげで4年過ぎました。

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 昨日、3月15日は慈雲寺の第四世光田凖眞上人の祥月命日でした。4年前の今日、カナダで先住民の遺跡の取材中だった私は、「師僧が遷化されたので、ただちに日本へ戻りなさい」という知らせを受けました。

 そして、飛行機を乗り継いで桶狭間へ駆けつけてから4年がたちました。4年も慈雲寺の住職をさせていただいているのですから、もう「新米庵主」と言って、ゆるされるはずもないですが、あいかわらずオロオロするばかりの毎日です。

 この四年間、本当に多くの方々に助けていただきました。心より深く感謝申し上げます。

 昨日も、私がなまけていたせいで、伸び放題になっていた植木や垣根を慌てて刈りました。EさんとVさんが、助けてくださらなかったら、とてもできることではありませんでした。手助け・・・ではないですね。EさんとVさんが主に働き、私はうろうろしていただけでした。

 先代さまは、とても優れた方で、多くの人々に慕われていた方です。そのおこぼれ(?)をいただいての4年間でした。これからは、自分で少しずつ皆さまの信頼をいただいていけるように努力しなければと思いながら、なかなか手足が動きません。

 不甲斐ない住職で申し訳ありませんが、どうかこれからもよろしくお願いいたします。

◎今日の写真は慈雲寺の門です。この門は、尾張藩御典医だった相羽家の門を移築したものです。慈雲寺は相羽家の一寄進で建てられた寺院で、その為、山号を相羽山慈雲寺といいます。

極楽で「ペットと飼い主」として再会できますか?(ペットの供養について Part2)

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 ペット供養の仏教的根拠について、私の思っていることを少し書いてみます。

 前回お話ししたように、慈雲寺でもペットの供養のために読経させていただいたことは何回かあります。その際には、必ず以下のお話し飼い主の方にお伝えしています。

 仏教では、生物は六道という六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を永遠に生死を繰り返して輪廻していると考えます。各世界で生きているうちの行為や縁によって、次に生まれ変わる世界が決まっていきます。大事なポイントは、どの世界に生きることも「苦」だということです。天人の住む天上界ですら、生老病死の四苦は容赦なくやってきます。

 仏の教えを聴き、この輪廻のサイクルから抜け出してお浄土(極楽)に往生させていただこうとするのが、浄土教の教えの基本です。極楽の主である阿弥陀仏は、全ての衆生を一切の条件を付けずに極楽へ迎え取って下さいます。しかし、阿弥陀仏のお慈悲、願いに気づくことがなければ、また輪廻のサイクルに飲み込まれてしまいます。

 今、私たちは幸いなことに人間に生まれ、お釈迦様が説かれた教えを仏典を通して聴くことができるのです。仏語を聴くことができるのは、人間と天人だけです。私たちは、長い輪廻の末に、このチャンスに恵まれたと言って良いでしょう。

 さて、『阿弥陀経』によれば、極楽には動物(畜生)はいません。美しい鳥がいるという描写はありますが、これらの鳥は、本当の動物ではなく、阿弥陀仏のお慈悲の象徴だと解釈されています。

 ですから、飼い主とペットが、極楽で「ペットと飼い主」として再会することはないと思います。しかし、飼い主がたっぷり愛情をかけて育て、ペットの方も飼い主に心の癒しを与えていた場合、きちんと供養をして見送れば、そのペットが人間や天人に生まれ変われるチャンスは大きくなるのではないでしょうか?

 やがて、全ての生きとし生けるものは極楽に迎え取られます。ですから、いつかペットも人間か天人に生まれて極楽にやってくるでしょう。ペットと飼い主という姿で再会はできないでしょうが、深い愛情に結ばれていれば、必ずお互いの縁を感じることができると思います。

◎今日の写真は、有松絞で有名な有松の旧家で見た桃の花です。

 

ペット供養の‟ブーム”に疑問 (ペットの供養について Part1)

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 先日、「慈雲寺ではペット供養をしてくださいますか?」というお問い合わせをいただきました。私が慈雲寺に赴任してから、ご近所の方やご縁のあった方などから、数件同じようなご依頼をいただき、御供養させていただいたことがあります。

 ペットの供養について、いくつか考えていることがあります。

①最近のペット供養の「ブーム」には、疑問を持っています。

 昨年、東京で「エンディング産業見本市」というものを見学に行きました。墓石の業者からお棺、霊柩車、遺品整理の専門家まで、人生のエンディングに関連した様々な業者がブースを出していました。

 その中で、ひと際華やか(?)だったのがペット供養の関連商品の展示でした。可愛らしい色や形の骨壺、自宅で遺骨を供養するための祭壇、墓石などなど、業界はペット供養を大きな市場として重視していることが良くわかりました。

 私も犬を飼ったことがありますので、ペットを手厚く葬りたいという気持ちはよくわかりますが、この華やかな展示ブースには、あまりにたくましい商魂のにおいがして、かえって哀しくなりました。

 また、妙に派手で、可愛らしさを強調したものばかりなのは、やはり需要に応じたものなのでしょう。つまり、飼い主の中には、ペットを「愛玩」、言い換えれば、おもちゃやアクセサリーのように扱っていたのではないかと疑問がわいてきたのです。

 ペット供養で派手に宣伝しているお寺にも、なんだかうさん臭さを感じてしまうことがしばしばあります。ペット用の火葬場を併設したり、ペットと飼い主が一緒に入れる墓地まで用意しているお寺もあります。ペットの供養とは、仏教的にどういう意味があるのでしょう。その宗教的な根拠はどこにあるのでしょう?

 単なるお金儲けの手段になってしまっていないか、気になるところです。

◎今日の写真は知多半島の内海の海岸です。

心を浄く保つのも、汚してしまうのも自分しだい。

今日のお釈迦さまのお言葉

みずから悪しきことをすれば、みずからを汚すことになる

みずから悪しきことをしなければ、みずからを浄めることになる

きれいとか汚いとかいうものは 各自のことがらであり、

人が他人を浄めることなどできない。

『スッタニパータ』より

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 仏教徒として生きるということは「利他に生きることを選んだ」ということです。その行動は「善いことをする 悪いことを避ける 人の為に自分ができることをする」の三つです。

 煩悩に曇らされている私たちには、なかなか善いことをするのは難しいです。しかし、阿弥陀様に願われている自分であることを忘れなければ、自然に心を浄く保って行こうとしたくなるものです。

 私たちをとりまく環境は、なかなか思い通りにはいきません。他人の心を変えることはできませんが、自らの心を浄くたもとうと努力することは可能です。自分の心を変えられるのは自分だけなのですから・・・

 私たちは他人を浄めることはできません。しかし、他の人が善き行いがしやすくなるように手助けしたり、励ましたりすることはできます。しかし、その時に注意が必要なのは、「助けてあげる」というような傲慢な態度や恩着せがましい態度にならないようにすることです。

 謙虚であることは、仏教徒の大切な行動規範の一つです。そして柔和な表情と思いやりのある言葉を常に心がけましょう。

◎今日の写真はモルドバの岩窟修道院です。崖の下には葡萄酒用のブドウ畑が広がっています。洞窟には老いた修道士が一人で住んでいました。

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は4月29日に行います。テーマは「煩悩って何?」です。

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 今日はほんのりと温かい良いてんきでした。おかげで30名近くの方が「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を聴きに来てくださいました。

 講座の始まりには、皆で短いお経を読誦するのですが、今日は特に、東日本大震災で亡くなられた方々の御供養もさせていただきました。

 さて、今日は「仕事の悩みと仏教」というテーマだったのですが、私自身が「仕事」とな何かということについて、まだ十分に掘り下げて考えていなかったせいか、「難しくて良くわからなかった」という感想を数名の方からいただいてしまいました。じっくり反省して次回に生かしたいとおもいます。

 さて、次回の講座は4月29日に行います。テーマは「煩悩って何?」としました。

 私たち末法に生きる凡夫は、煩悩に目を覆われ、迷いの世界をさまよっています。煩悩にまみれた「修行」では、決して悟りの世界にはたどり着けないのです。しかし、阿弥陀仏はそんな私たちを憐れみ、慈しんで、煩悩のまま、あるがままの私たちを救い取ってくださっています。

 いったい、煩悩とな何なのでしょうか?改めて御一緒に考えてみましょう。

◎今日の写真は、奈良県の明日香村に点在する謎の巨石の一つ、カエル石です。古代の人々はいったい、何のために、どんな気持ちでこの石を作ったのでしょう?いろいろな想像が広がります。

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」のテーマは「仕事の悩みと仏教」です。(慈雲寺へのアクセス情報は記事の最後に)

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 人生にはさまざまな悩み、苦しみがあります。仏教は「生きることは苦である」と正しく考察し、その原因を探っていく智慧の教えです。

 その悩みの中でも、「仕事の悩み」は多くの人にとって、とても重いものでしょう。しかし、仏教は「仕事は人生の中のほんの一部にすぎない」と教えています。仕事とは何のか?仕事の悩みに仏教はどうアプローチしているのか、御一緒に考えてみましょう。

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月11日(日)の10時より行います。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

◎慈雲寺への交通アクセス

 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。日曜の9時台は二番乗り場から9時07分と36分に発車します。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。日曜は8時45分にバスが出ます。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は8時50分発があります。所要時間は約40分
●JRの大高駅から緑循環バスの名鉄有松行で郷前に行くことができます。日曜は8時44分と9時44分に出発します。9時台のバスですと10時の開始時間には少し遅れますが、あわてずにおいでください。
●また、同じ緑循環バスの名鉄有松行は南大高駅東にも停車します。9時9分発です。
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えますので、右手の細い坂道を上がってください。

◎今日の写真は奈良県の飛鳥で見た石仏です。穏やかな素敵な表情をなさっていますね。