慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

「曼荼羅相承」のため、しばらく本山に籠ります

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 当麻曼荼羅は、奈良の当麻寺に伝わっている曼荼羅です。浄土変相図の一つですが、当麻寺に伝わっているものは、単に『観無量寿経』に説かれた極楽の様子を表しているのではなく、中国で浄土教を大成した善導大師がこの経典を解釈した『観経疏』という書物に沿って描かれているのです。

 法然源空上人(法然上人)の高弟、證空上人(西山上人)は、この当麻曼荼羅の縮小した写しをたくさん作り、各地の寺院に奉納しました。以来、西山派の僧侶たちは、證空の教えに従い、この曼荼羅の絵解きを通して、阿弥陀仏の救いを人々に説いてきたのです。

 曼荼羅ですから、描かれているもののすべてが、象徴的な意味があるのです。それを教えていただき、相承していくのが「曼荼羅相承」です。10年に一度ぐらいしか行われないので、多くの僧侶が本山に集まります。

 今回は、わたくしも参加して良いとのお許しを本山からいただけたので、今夜から京都の西山に籠ります。インターネットとは無縁の日々になりますので、しばらくはブログの更新もできなくなります。

 住職はなるべくお寺を空けるべきではありませんが、大事な修行ですので、お許しくださいませ。

 慈雲寺にはお留守番をしてくださる方がいますので、ご用件や連絡先などのメモを残していただければ、帰山しだい、ご連絡させていただきます。

◎今日の写真は、「当麻曼荼羅」の写しの一つです。

 

自分の言葉で、自分の意見を言える力

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 文科省の前事務次官、前川喜平さんが名古屋の公立中学で行った授業について、文科省が名古屋教育委員会に異例の問い合わせをした事件に、私は深い関心を持ってきました。幸い、私が購読している中日新聞はこの件を詳しく報道してきました。文科省からの質問に対する、名古屋市教育委員会の回答も全文掲載。とても興味深いものでした。その後も、関連記事が幾つか出ていましたが、先日、前川氏を招いた中学校の校長先生のインタビューが出ていました。

 この上井靖さんは、三月末で定年退職なさったので、正確には「前校長」です。退職したから、お話しできるようになったのかもしれませんね。このインタビューの中で、上井さんは「当時、市教委が毅然とした対応をしたと感じ、その姿勢に勇気づけられた。」とありました。実は私も文科省への市教委の回答を読んで、かなりホッとしました。

 上井さんのインタビューで一番印象的だったのは、事件が表面化した後、上井さんは生徒たちに「取材になったら正しいと思ったことを堂々と話せばいい。」と伝えたということでした。自分で考え、自分の意見を自分の言葉で言えることの大切さを教えてもらった生徒たちは、とても幸せだと思います。前川氏が伝えたという「生涯学び続ける力を身に着ける」というメッセージも、生徒たちの人生に大きな力になるはずです。

 このブログに何度も書きましたが、母国語の能力を伸ばし、語彙を豊かにし、自分の意見を言える力をつけることが、何よりも大切だと思っています。母国語は文化であり、自己を形成する基本だからです。外国語はあくまでも道具。道具を上手に使いこなせるかどうかは、母国語による自己形成ができているかどうかにかかっています。

 ですから、小学校で英会話などを教える時間があったら、もっと国語をしっかりやるべきです。自分の意見を述べる時間、討論のやりかたを学ぶ時間を増やすべきでしょう。自分の考えのない人が、いくら外国語を習っても豊かなコミュニケーションができるわけがありません。

 前川氏の授業が、名古屋市にもたらした影響は、これからも長く続きそうです。

◎今日の写真はインドのタージマハールで見た飾り彫刻です。

あらためて『西遊記』を読んでみる

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 先日、古本屋の100円本コーナーをうろうろしていたら、『西遊記』というタイトルが目に入ってきました。『西遊記』は、岩波文庫の全10冊!から漫画まで、さまざまなバージョンを読んできました。孫悟空や従者の大活躍はもちろんですが、三蔵法師さまの大ファン。実際の三蔵法師玄奘シルクロードの旅を想像すると、本当に心が躍ります。

 シルクロードの取材に行くたびに、「玄奘がここも通った」という場所で、ぼんやりと三蔵法師孫悟空たちのことを考えて、ワクワクしていました。

 さて、今回見つけた本は、なんと平岩弓枝さんが翻訳(というのかな?翻案?)したものでした。平岩さんのバージョンがあることは知りませんでした。どうやら4冊になっているようですが、その古本屋さんには一巻しかありませんでした。

 電車の中で読み始めたら、まあ!おもしろい。特に、三蔵法師孫悟空と出会う前のエピローグの部分がとても興味深く、しかも流れがすいすい頭に入ってきます。岩波版だど、この辺りはちょっと進み方が遅くて、覚えにくい名前もたくさん出てくるし、目がページの上を滑っている感じでした。

 三蔵法師孫悟空の出会いが、『西遊記』の最初の山場。あんまりさっさと読み進めてしまうのが惜しい気がします。

 少し前に入手していた『三蔵法師の道』という写真や地図がたっぷり入っている本を横に置きながら、三蔵法師孫悟空たちの旅と、実際の玄奘の旅を想像しつつ読んでいきたいと思います。

 

「感情が動かなくなれば、忘れることも増える」ー 記憶と感情

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 このごろは圧倒的に少数派になってしまいましたが、私は電車の中で本を読むのが大好きです。揺れる車内で読むので、あまり細かい字だったり、難しい内容のものは向いていません。気持ちが楽しくなったり、ゆったりしたりする本がさらに良い。

 と、いうわけで持って行く本を選ぶのも外出の楽しみの一つです。昨日は、解剖学者の養老孟司さんとイラストレーターの南伸坊さんの対談本『超老人の壁』を持って出ました。有名な絵画を題材にしたり、遺体の運び出し方に言及したり、お二人の対話のテーマはさまざまですが、どれも知的な遊び心いっぱいです。

 その中で養老先生が老人の物忘れについて言及したのが目に留まりました。

 「年寄は体力もないし、感情を動かすと疲れるでしょう?記憶は感情と結びついてるんで、感情が動かなくなれば、忘れることも増えます。」

 電車の中なのに、思わず「おお!」と声が出てしまいました。単に記憶力が落ちてくるのではなく、関心がなくなると忘れる・・・当然といえば当然ですね。

 喜怒哀楽の心が豊かで、美しいものを愛し、知的好奇心を元気に働かせていけば・・・関心がなければ忘れるって、ほんと。

 しかし、リタイヤして、豊かな老後を生きている方は、学校や会社の時代のように、無理やり関心のないことまで記憶する必要はないわけですから、関心がないことを忘れても、別に気にしなくても良いのでは?

 その代わり、美しいもの、優しい感情、穏やかな思いなどに関心を持ち、新しい情報と結び付けていけばよいのでは?例えば、本や新聞は知的刺激がいっぱい。「仕事に必要」とか「試験に出る」とかはもう考えなくても良いのですから、本当に自分の好きなことに集中して、たっぷり感情を動かして記憶していくことができるわけです。

 おお、なんだか楽しくなってきました。

◎今日の写真はインドのタージマハールで見た大理石の象眼細工です。

お通夜の法話こそ、僧侶の「一大事」

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 先日、あるお通夜に知人として参列しました。どの宗派の葬儀でも同じだと思うのですが、お通夜の時は、読経の後で僧侶が短い法話(説教)をします。知人を悼む気持ちがとりわけ強かったので、どのような御法話をいただけるのかと、期待しながら読経が終わるのを待っていました。

 すると、読経を終えて参列者の方を向いた僧侶の口から出た最初の言葉は「はい」でした。まるで「はい、一丁上がり!」という感じの「はい」・・・・そして「通夜式」と本来夜を通して行われる通夜との違いについて、ごく簡単に述べ、また「はい」と言いながら退席なさいました。

 「はい」というのが口癖なのでしょうが・・・・

 あまりに軽い内容に、正直がっかりしました。

 通夜は、亡くなった方の身近な人にとっては深い哀しみの時ですし、たとえ義理で参列したような人にとっても、人の命、「生老病死」という人間の現実を直視する大切な機会です。こんな時にこそ、僧侶は哀しみを少しでもやわらげ、命の大切さを気づいてもらうヒントとなる法話を心掛けるべきでしょう。

 葬儀は布教の機会というのは間違いだと思いますが、「あのお坊さんに送ってもらって良かった」と思ってもらえるかどうかは、お経の長さではなく、僧侶の人柄、宗教者のしての姿勢にかかっていると思うのです。

 短い法話でも、僧侶にとっては一大事と覚悟して、しっかり準備すべきでしょう。もちろん、これは自戒。僧侶としての日々の精進が大切ですね。

◎今日の写真はインドのタージマハールです。

信仰の友を送る

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 先日、Hさんの葬儀に参列させていただきました。Hさんは、「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を聴きに来てくださったり、満月写経の会に参加して下さったりしていた方です。数年前から闘病生活をなさっていたのですが、最後までけして希望を捨てず、常に前向きで、闘病の心境をブログに書かれたりしていらっしゃいました。

 Hさんは禅宗のお寺の檀家さんでしたが、私にとっては宗派とは関係なく、同じ「仏教」を信じる信仰の友でした。このブログにも、何回かコメントを書いて下さり、その度に嬉しく、励まされました。Hさんの「命」への向き合い方には、いつも感銘を受けていたのです。

 Hさんは、50代後半だったので、「惜しい」とか「残念」と誰もが思われることでしょうが、Hさんの人生はとても充実したもので、濃密な時間を過ごしてきた方のようにお見受けしました。

 通夜の参列者は式場がいっぱいになるほどで、お仕事関係と思われる方の多くが本当に悲しそうにしていらしたのが印象的でした。

 信仰の友を送るのは哀しいものですが、Hさんが残して下さったものは消えてしまうわけではありません。大切に心の中に残し、そこから育てていくものを大事にしたいと思いながら式場を後にしました。

◎今日の写真はカナダのブリティッシュコロンビア州北部で見た氷河です。

弘法大師のお言葉

弘法大師のお言葉

「病なきときは すなわち薬なし。障りあるときは 即ち教えあり。

 妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りをあわれんで 顕わる。

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 5月6日(旧暦の3月21日)は弘法大師が深い瞑想に入られた御正当日です。祥月命日というべきでしょうが、真言宗の教えでは、弘法大師は亡くなったのではなく、今も高野山奥の院で、生身のまま瞑想に入られているとしています。

 上にあげた大師のお言葉は、とても深い意味があると思われるので、他宗派の私が簡単に説明するわけにはいきません。しかし、「病があるから薬がある」というのは、心に残る言葉です。浄土宗的に見ると、お釈迦様は、末法の時代に生きる私たちを憐れんで、阿弥陀様という仏様がおいでのことを教えてくださいました。まさに、私たちの生きる苦しみという「病」への仏語という「薬」です。

 薬を飲んで、じっくり養生していく、自分のできることを少しでもしていくのが、仏教徒の暮らしでしょう。

 5月6日には、慈雲寺では弘法大師像を壇から降ろし、参詣の皆様にお身拭いをしていただきます。弘法大師とより深いご縁を結んでいただく良い機会だとおもいますので、ぜひお気軽にご参詣ください。

 また、四国八十八か所から集めた砂を踏んでいただける、お砂踏みもいたします。巡礼をしたのと同じ御利益があると言われていますから、こちらもぜひ体験なさってください。

 5月6日の10時から短い法要と弘法大師のお話しをしますが、お身拭いとお砂踏みは全日、いつでもお参りいただけます。