慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

観音さまの御足に触れさせていただいただく!

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 奈良の長谷寺のご本尊は10m以上もある巨大な十一面観音です。迫力のある美しいお姿で、一般の参拝者はちょうど胸から上ぐらいが拝めるようになっています。

 先日、友人にご紹介いただいて、ある団体の参拝に同行させていただくことができました。数か所の社寺を巡ったのですが、その一つが長谷寺。ちょうど今、ご本尊の特別拝観が行われていました。

 この特別拝観では、観音様の足元でお参りができるだけでなく、なんと(!)その御足に触れさせていただくことが許されているのです。案内して下さった、長谷寺の若い僧侶の方は、「御足にしっかり触れてお願いして下さい。片手でちょっと触るのではなく、両手でしっかり。」と声をかけて下さったので、皆、御足を両手で抱えるように身を乗り出してひれ伏します。

 観音様に助けていただきたいことがある人や、大願を心に秘めている人・・・皆、思いを込めて祈っています。観音様の膝のあたりまで手を伸ばす人もいて、祈りの熱気が周辺にこもっているように思えるほどでした。

 私は、今、何か大きなお願いというものは思いつきませんでした。本堂の修理が大願といえば言えるでしょうが、観音様におすがりするのは、私たちが十分に気持ちを整え、資金的な準備をしてからの事でしょうか。できることをさせて貰ってからのことだと思うのです。

 う~~ん・・・といろいろ考えていたら、後ろの列がどんどん長くなってきてしまいました。まずは、今の状況(慈雲寺に赴任させていただけたことや、健康のことなど)を感謝。そのうえで心に浮かんできたのは、「どうか、寺務所の整理整頓をおっくうがらずにやれるようお助けください。」という言葉でした。

 掃除は僧侶の一生の修行です。掃除がおっくうなどと感じること自体が、僧侶失格・・・ましてや観音様に助けを求めるなど、愚かにもほどがあります・・・う~~ん、でも、本当に掃除のことが目下の最大の悩みなんです。

 観音様の御足はふっくらとして、触れると不思議な温かみを感じました。右足がほんの少しだけ前に出ていて、なんだか動き出しそうでした。

 

流行語大賞候補の「グレイヘア」と坊主頭

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 今朝、めずらしくテレビをつけていたので、昨日発表された流行語大賞候補のことが話題になっていました。候補になっている言葉のほとんどは、私の中では流行ってませんでした(笑)

 でも、一つ気になったのは「グレイヘア」。白髪が目立つようになった女性が、髪染めをするのではなく、白髪を生かした美しい髪形に発想を変えていくということのようです。

 まばらな白髪は「やつれた」とか、「だらしがない」とかいうイメージがあったのではと思いますが、自分の体の変化を自然に受け入れ、それを生かして、本当の自分の美しさを追及していくという意味での「グレイヘア」なら大賛成です。

 まあ、多くの女性が10代のころから髪の毛を染めている今、「染めない」というのも一つの選択でしょう。でも、白髪を美しいシルバーヘアーに保つのは、髪の毛の艶が大きなポイントになるでしょうから、結構お手入れが大変では?

 北米に住んでいた時は、ブロンドの髪の人が、白髪が増え、そこから艶々したプラチナブロンドになるのが理想と聞いたことがあります。

 さて、白髪も黒髪も関係ない坊主頭の私です。先日、慈雲寺にご近所の小学生が社会見学に来てくれましたが、その生徒たちから出た質問に「なぜ坊主頭なのですか?」という質問が出て、返答にかなり困りました。

 真面目にお答えすると、坊主頭はもともとは別に宗教的な理由ではありません。今は、うぬぼれを排除するためとか、謙虚に質素に暮らすのが僧侶の理想だからという説明がされますが、もともとは蒸し暑いインドで、できるだけ清潔に暮らすための知恵というだけなのではと思います。白髪だ、染髪だと気にしなくてもいいし、服装もシンプルにまとまる。反対に、思い切り派手な服にも、案外坊主頭は似合うものです、

 坊主頭はいいですよぉ。まあ、ときどき女性用トイレとかお風呂に入るとき、ビックリされてしまうことがあるのが唯一の問題。あとは、何もかもスッキリ、シンプルに暮らせますよ。

◎今日の写真も大阪府立陶磁器博物館でみた青磁の香合です。どんな香りのお香がこの中に入れられていたのでしょう?もしかしたら、美しいお姫様の紅入れに使われていたのかも?

『ブッダがせんせい』より Part3

今日のお釈迦さまのお言葉


「人をあざむいてはなりません。
どんなときも人を軽んじてはいけません。
人を悩まそうとして怒りをいだいたり、
人に苦痛を与えることを望んではいけません。」
『スッタニパータ』より 

 

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 子供用の『ブッダがせんせい』に取り上げられている言葉です。この本では、上の言葉が

 「だれかをだましたり、だれかを見下したりするのは

  いちばんやってはいけないこと」と言い換えられています。

 

 私たちは、自分自身が不安になったり、劣等感を感じたとき、誰かを見下すことで自分を支えようとしがちです。

 今、アメリカで中間選挙の真っ最中ですが、「アメリカが不景気なのは中国のせいだ」、「自分が良い仕事につけないのは移民のせいだ」、「自分が良い学校に入れなかったのは、黒人の優遇策のせいだ」などなど、だれかを見下すことで、自分を上げようとする発言があちこちで聞かれます。大統領自らも誰かを見下すことで、アメリカの誇りを回復しようとしているように見えます。

 もちろん、こんなやりかたで、自分や国の価値が上がるわけはありません。

「自分の価値」「などというものを考えること自体が愚かなことですが、もし「価値」をうんぬんするなら、どれほど人を愛せるか、どれほど人のためにつくせるかを思うべきでしょう。

 そして、阿弥陀さまは、価値がどうのなどということは一切関係なく、私たちをこの身このままで抱き取って下さっていることを忘れないようにしたいものです。

 

◎今日の写真は大阪府立陶磁器博物館で見た青磁の小瓶です。いったい中には何が入っていたのでしょう?

 

 

『ブッダがせんせい』より Part2

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 お釈迦様のお言葉

 たいまつからたくさんの火をとっても、たいまつはもとのままであるように

 幸福というのは、いくら人へ分け与えても減らないものです。

                   『ブッダのことば』より

 

 先日ご紹介した、子供用の仏教入門書『ブッダがせんせい』に取り上げられている言葉です。この本は、お釈迦さまの教えを子供向けに上手に(わかりやすいけれど、意味も雰囲気もこさわない)翻案しています。

 例えば、上にあげたお言葉は

 楽しいことは、 みんなでわけあっても へらないよ

と、訳されています。

 解説は「きみが楽しくても、友だちのだれかがつまらなかったり、さびしい思いをしていたら、本当の楽しさ。」とあります。さらには「楽しさを分け合っても、楽しいことは絶対にへりません、」と書かれてあります。」

 じぶんのことばかり考えていたら、なかなか執着から逃れることはできません。「もっていること」自体が苦しみになっているからです。

 お念仏の徒、仏教徒として生きることは、幸せをみんなに分けていくことです。物やお金だけではありません。優しい言葉を人にかけ、笑顔を見せることも大切な「分け与え」です。

 布施とは、幸福をみんなで分かち合っていくことです。

◎今日の写真は淡路島の雑貨屋さんの店先で見た象さんの行列です。

 

 

   

 

出家を考えている女性におすすめの本 『尼さんはつらいよ』Part2

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  昨日は、遠く関東地方から慈雲寺を訪ねて下さった方とお話しました。この方は、子育てが終わった後の自分の人生を考えたとき、尼僧として生きることも選択肢の一つとしたいというご相談でした。

 以前から、何度もこのブログに書きましたが・・・・

 現状を急いで打開、というかリセットしたいと思う時、結婚や留学、そして出家などを考えるのは、あまりお勧めできません。勢いのままに良い方向に行かれる場合もあるでしょうが、多くは迷いのもとにしかならないからです。

 その点、この方は何年後かの目標として「出家」を考えておいでのようですので、私からは「今すぐにできる準備」についてお話しました。この準備は、一つだけです。

 僧侶になる前に、まず、仏教徒になることが大切だということです。日本の仏教には多くの宗派があります。どれも、お釈迦様の教えから発展してきているのですから、どれでも結果的には同じ・・・という考え方もありますが、アプローチの仕方も、修行の仕方も違いますから、やはり「相性」というのは大事だと思います。

 慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の宗祖である法然源空上人(法然上人)も、山奥で一人でお念仏した方が良い人は山奥へ、一人では寂しくてお念仏がしにくいなら街中に住んでお念仏しなさいとおっしゃっています。

 私は、この源空上人の高弟で、西山派の流祖である善慧房証空上人(西山上人)という方の書物を読んで、「この方の弟子にしていただきたい!」と思ったのが、僧侶になるきっかけでした。

 むやみに出家したいと爆走するのではなく、どのアプローチで教えの道を歩むかを考え、仏教徒としてのものの見方、考え方を実践したうえでの出家の方が、単にリセットを求めるよりずっと現実的です。

 自分に合った教えへのアプローチの仕方、信頼できる良き師僧に出会えるかどうかはご縁というしかありませんが・・・私でお手伝いができるなら、とても嬉しい!このブログを続けているかいもあるというものです。

 さて、前にも書いたことのある本なのですが、勝本華蓮さんのお書きになった『尼さんはつらいよ』(新潮文庫)は、出家を考えている方にはぜひ読んでいただきたい本です。

 真面目で、才能に恵まれ、努力家の著者が、尼僧として生きることを志してから、ぶつかる様々な問題について、真摯に向き合った記録です。昨日おいでになった方にも、まずこの本をおすすめしました。

 しかし、(ここが大事なところなのですが)私は勝本さんがお書きになっているような「つらい」経験を実は全くしたことがないのです。

 全くの偶然で良き師に出会い、まったくのマイペースで修行をし、知恵も力もある先輩や友人にも恵まれて、今、慈雲寺で生きています。勝本さんとは歩み方が全く違うように思えます。

 単に私が恵まれていただけ?勝本さんには困難を克服して宗教者としての深みが増した?

 むずかしいところです。

 しかし、尼僧を志す方々には、やはりこの勝本さんの本は必読書だと思います。「こんなこともあるかもしれない・・・でも、やっぱり出家という生き方を選びたい。」と思った人が、慈雲寺で私を見て、「あら?こんな人でも、ニコニコ僧侶を続けていられるのかぁ」と思ってもらえたら良いのかも???

◎今日の写真は大阪府立中ノ島図書館の美しい中央階段です。

 

シナゴーグの銃撃事件に思う

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 27日にアメリカのピッツバーグで起きたシナゴーグユダヤ教会堂)の襲撃事件の記事を読んで、深い哀しみを感じています。なんの宗教であろうが、聖なる場である社寺、教会堂は「安全」な場であるべきです。誰もが、その中にいれば安心して祈れることこそが、聖なる場の役割だからです。

 憎悪を抱いて入り込んだ人が、その荘厳さや静けさに打たれて銃を下ろさなかったというのは、とても残念なことです。「神」はそれをどう見ておいでだったのでしょう?目の前で自らの信者が殺されても沈黙している「神」・・・お寺だったら仏様はどうなさったでしょう?

 慈雲寺に、もし、憎悪で燃え上がっているような人が押しかけてきたら・・・本堂に上がり込んだとたん、「あれ?自分は何をしているのだろう?」と思ってもらえるような雰囲気のお寺になっているでしょうか?

 この報道をきっかけに、考えさせられることがたくさんあります。せめて、美しい花を飾り、心地よいお香のかおりのただよう場を作るところからでしょうか?

 

 ところで、新聞を読んで気になったのは、世界におけるユダヤ人差別の根深さについて、日本ではいまひとつ理解されていないのでは?ということです。誰でもヒットラーユダヤ人迫害のことは知っているでしょうが、あのことは、ヒットラーの思い付きではなく、長い差別の歴史の一部でしかありません。

 シナゴーグの襲撃や破壊も何度も、何度も繰り返されてきたことです。

 宗教を背景にした憎悪や差別をなくすのは、とても大変なことです。お互いの理解を深めるのはもちろんですが、皆が安定して暮らせる社会の実現も不可欠でしょう。

「自分が失業したのは、○○の連中が仕事を奪い、富を独占しているからだ。」

自分の状況を「誰か」のせいにして、不満をぶつけていく。政治家もそれを利用する・・今、アメリカでおこっているのは、正にこの負のスパイラルです。

 

◎今日の写真は、ネットの無料画像からお借りした、スペインのシナゴーグです。スペインでは、イスラム教徒が主流だった時代には、ユダヤ人迫害はほとんど起きていなかったそうです。

 

秋は「満月写経の会」の会がより楽しい

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 慈雲寺では、毎月満月の夜にお月見を兼ねて写経・写仏の会を催しています。10月は25日が満月でした。綺麗に晴れた空に大きなお月さま。

 写経には7人の方が参加して下さいました。秋はお月さまも、より美しく見えるし、暑くなく、寒くなく、写経にもってこいの季節ですね。

 慈雲寺の写経・写仏は、おそらく他のお寺にはあまりない雰囲気です。走り回る子供もいるし、数行写しただけで、お月見に縁側へ出ていく人、お茶とお菓子でのんびりする人、いろいろです。一応、7時半から『般若心経』の読誦を始めるのですが、そのずっと前にいらして、一人で静かに写経なさる方もいます。

 もちろん、お経はお釈迦さまの仏語ですから、一文字一文字で深い智慧があり、意味があります。本来なら、一文字するごとに三拝し、気持ちをグッと集中させて一気に書き写していくべきでしょう。

 しかし、私は写経が”苦行”になってはいけないのではと思っています。お釈迦さまの慈悲に満ちた言葉をゆっくりと聴かせていただく・・・という気持ちではいけないでしょうか?

 仏語を書き写しながら、自分の気持ちに素直になって、「よし、今日はここまで」と思うところでやめて良いと思います。

 子供の足音がうるさいと思ったら、しばらく筆を止めてもよい。足音にイライラす自分と向き合うきっかけにしても良いでしょう。

 『般若心経』は、こだわらない心、広い、柔らかな心について語っているのだという解釈もあります。そうかもしれません・・・

 もし、一人で集中なさりたいなら、写経の会の日以外の時に慈雲寺の本堂においでになってみてください。いつでも写経をしていただけるように、用意がしてあります。庫裏にお声がけ下されば、写経の手順などについてお話しさせていただきます。

 11月の満月は23日です。ぜひお気軽に「満月写経の会」にご参加ください。