慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

空腹は脳が作り出す妄想?

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 先日、曹洞宗の総本山総持寺で数日を過ごすという、有難い経験をさせていただきました。その時体験したことについては、自分の中でまだ消化できないところが多いので、少しずつお話していきたいと思います。

 今日はまず食事のお話から・・・総持寺にいる間は、参拝者の方々が宿泊する施設にいたのですが、食事は修行僧の方々と同じ完全な精進料理。量もほんの少し・・・総持寺での食事については、少し噂をきいていましたが、いざお椀に半分ほどのお粥と漬物だけの朝食、煮物と茹でた野菜の二皿と白米という夕食には、思わず「う~ん」と心の中でうなってしまいました。

 これでは、夜、お腹がすいて眠れないのではと心配になりました。何か買ってくればよかった・・・・

 食事の作法もきちんと教えていただきました。食べることに集中することが基本。もちろんおしゃべりは禁止。一口づずゆっくり咀嚼し、口の中で食べ物が液状になるまで噛めと言われます。

 ゆっくり、ゆっくり咀嚼しながら食べて行きます。黙って、食べることに集中していくのは、それほどつらいことではありませんでした。むしろ心地よいほど。

 そうやってゆっくりゆっくり噛んでいるうちに、満腹感がしてくるのです。ゆっくり噛んで食べれば、脳が満腹という信号を出すという話は聞いたことがあります。確かに、食事の間はそうかもしれません。しかし、食べたものの量はいつもよりもずっと少ないのですから、食後はすぐにお腹がすいてくると思いました。次の食事まで、間食無しは辛いかも・・・・

 ところが、驚いたことに、総持寺で過ごしている間、お腹が全く空かなかったのです。次の食事が、丁度よいタイミングで来るし、自室に戻って同宿の人たちがすすめてくれたお菓子も食べたい気になりませんでした。不思議なことです。

 そして、さらに驚くことが!最終日の昼食を終えて、日程は終了。そのまま下山となりました。総持寺は鶴見にありますから、私は新横浜から名古屋に戻ろうとしていました。

 その新横浜でのこと。留守番をお願いしていた方へのお土産を探していたら、崎陽軒のシュウマイ弁当を売っているのに気が付きました。その途端、猛烈にお腹が空いてきたのです。

 さっそくシュウマイ弁当を購入。新幹線の座席に座るやいなやお弁当を食べ始める私・・・まさに、「貪る」という言葉がぴったりだったと思います。

 昼食をいただいてから二時間ほどしかたっていないのに・・・いったい私に何がおきたのでしょう?

 清浄な環境から離れた途端、貪りの煩悩に飲み込まれたということでしょうか??我ながら情けないことです。

 慈雲寺に戻ってからは、さすがに自分が恥ずかしく、ともかく「ゆっくり食べることに集中する」という教えにしたがおうとしています。総持寺で使っていた箸を下さったので、その箸を自戒にしたいと思います。

◎今日の写真は、総持寺の三門近くにある楠木です。

 

 

5月12日(旧暦4月8日)はお釈迦さまのお誕生日です

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 お釈迦様は、阿弥陀仏のお慈悲と救いについて知らない末法の我々を憐れみ、『観無量寿経』をお説になったと言われています。

 お釈迦さまは旧暦の4月8日にお生まれになったと伝えられています。今は、桜の季節にあわせて新暦の4月8日に、花まつりとしてお祝いするお寺も多いのですが、本来の灌仏会はおよそ一か月遅くなります。ちなみに、花まつりの習慣が始まったのは、明治時代からのことだそうです。

 今年は5月12日が旧暦の4月8日にあたります。慈雲寺では、今年から行事はできるだけ旧暦で行いたいと思っています。その方が季節の自然の流れに合っていると思うからです。しかし、花まつりのイメージは少し違いますね。インドでは、いったいどんな花が花盛りになっていたのでしょう。

 お釈迦様がお生まれになったときは、天から甘露が降り注いだと言われていますが、花びらが舞い降りたかは、よくわかりません。

 さて、5月12日は灌仏会を兼ねて、「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を10時より行います。

 テーマはお釈迦様の前世についてさまざまな説話を集めた「ジャータカ物語」についてです。

 仏教では、お釈迦様の輪廻を繰り返して、菩薩として修行を積んできたと考えています。日本の『今昔物語』にも影響を与えた『ジャータカ物語』には、仏教の考える「善き生き方」がたくさん語られているのです。

 どなたでもお気軽にご参加ください。

◎慈雲寺への交通アクセス

 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。近くの有松ジャンボリーSCに大きな駐車場があり、無料で駐車できます。そこからお寺まで、北へ徒歩5分。
 ★鉄道、バスのアクセス
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。日曜の9時台は二番乗り場から9時07分と36分に発車します。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。日曜は8時45分に鳴子北駅からバスが出ます。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は8時50分発があります。所要時間は約50分
●JRの大高駅から緑循環バスの名鉄有松行で郷前に行くことができます。日曜は8時44分と9時44分に出発します。9時台のバスですと10時の開始時間には少し遅れますが、あわてずにおいでください。
●また、同じ緑循環バスの名鉄有松行は南大高駅東にも停車します。9時9分発と10時9分発です。
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません

人身受け難し  今已に受く 

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 今朝、お月参りに向かう途中で空を見上げたら、まるで真夏のような雲がムクムクと湧き上がっていたのでビックリ!今日は立夏です。

 12日の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」でジャータカ物語のお話をさせてもらうので、このところ昔読んだ文庫本を取り出して読んでいます。

 仏教では、お釈迦様も前世で何度も生まれかわり、修行を積んできたと考えます。ジャータカ物語で語られるお釈迦様の前世の生き方は、私たち仏教徒が「どのように善き人生をおくるか」をしめしているのです。

 仏教では、人間に生まれてきたということは、とても大切にすべき機会と考えます。華厳経というお経の中に、「三帰依文」として知られる文があります。その最初に説かれているのが、「人身受け難し  今已に受く」という言葉です。

 私たちは、今、人間に生まれたからこそ、お釈迦様の言葉を読み、聞くことができ、阿弥陀仏をはじめとする諸仏の慈悲に触れることができたのです。人間に生まれてきたということ、そのものを深く喜ぶことが、仏教徒としての生き方の第一歩なのです。

 法然源空上人(法然上人)も、『登山状』中で「まさにいま多生広劫をへて、生まれがたき人界にうまれて、無量劫をおくりて、あいがたき仏教にあえり」と述べられています。

 自分はなぜ生まれてきたのか、この人生になんの意味があるのか・・・とふと考えてしまうときこそ、「長い長い輪廻の旅を経て、仏の教えに出会うために生れてきた」と思い出して下さい。

◎今日の写真は、豊川稲荷の境内でみたタイサンボクの木です。

‶ナルちゃん”の長靴 - 今上陛下の即位報道を見て思ったこと

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 改元について、これという思いもなかったのですが、今日になって急に思い出したことがあります。

 私は今上陛下が、まだ皇孫の時代に数年間、ほぼ毎朝お会いしていた・・・いや、お見掛けしていたことがあります。

 父が私と弟を学校の近くまで車で送ってくれるとき、ちょうど徳仁さまが東宮御所から学習院に向かわれる時に、道を走ることになったのです。その当時は「皇孫」ということで警備が甘かった(?)のか、それとも皇太子殿下の御意向だったのか、交通が制限されることもなく、歩道を歩く殿下のすぐ横を私たちの車が通ったというわけです。

 御付きの方がいましたが、SPという感じではありませんでした。今から思えば、あの状況なら誘拐などの事態もありえる感じ・・・日本も世界も今より平和でのんびりしていたということでしょうか?

 もちろん、お見掛けしたのはほんの一瞬ですから、思い出というようなものはほとんどないのですが、一つだけ、なぜか強く印象にのこっていることがあります。

 それは、殿下の長靴です。上の写真はインターネットの無料画像からお借りしたものですが、こんな風にごくシンプルなデザイン。ブランドを示す印もなかったように思います。

 印象に残ったのは、その長靴が明らかにぶかぶかだったからです。ちょっと歩きにくそうに、それでも元気に坂道を歩いていく御兄弟が心に残りました。

 「ナルちゃん、ぶかぶかの長靴履いてるね。」と父に言うと、「小学生はすぐ大きくなるからなぁ。次々買ってもらえるわけじゃないんだね。」と笑っていました。

 天皇家の方々が自分が想像していたより、質素というか堅実にお暮しなことが子供の私にも伝わってきたのです。このことを利用(?)して、妙に説教臭いことを言わなかった父のことも、私にはいろいろ考えさせられるものがありました。

 今上陛下の即位報道を拝見しながら、亡き父の声を思い出して少し寂しくなりました。

 歴史的には、災害などで社会が疲弊したりしたとき、世を改めるきっかけとして改元されることもあったとか。令和の社会が平安で、人々の心が穏やかであることをあらためて祈りたいと思います。

 

五月の慈雲寺の行事

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 新元号と新しい月の“五月晴れ”で迎えたいところですが、今朝の桶狭間はどんよりした曇り空です。自然のことは人間の都合の良いようにはいきませんね。

 さて、今月の慈雲寺での行事のおしらせです。

1)5月12日10時より 「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」

 今月のテーマは「ジャータカ物語って何?」です。

 12日は旧暦の4月8日、灌仏会の日です。灌仏会とはお釈迦様の誕生を祝う日で、花まつりとして知られています。花まつりという言葉が一般化したのは、実は明治時代のことで、新暦太陽暦)の4月8日が桜の花の季節と重なるからのようです。

 慈雲寺では、今年から元旦を除いては全ての行事をより季節に合った旧暦で行おうと試みています。そうすると、桜とは無縁になってしまうし・・・・う~ん

 それはさておき、お釈迦様も何度も輪廻を繰り返して、ついにゴータマ・シッダールタとして生まれ、悟りをひらかれたと仏教では考えます。ジャータカ物語は、そのお釈迦様の前世についての物語です。

 お釈迦様が前世でもたくさんの徳を積み重ねた結果、ゴータマ・シッダールタとして生まれたと考えるのです。ジャータカ物語には、仏教的な「善き生き方」の例がたくさん集められています。読み物としても楽しいもの、少し哀しいもの、勇気をもらえるものなど、さまざまです。

 ぜひご一緒にジャータカ物語を読んで、お釈迦様の誕生をご一緒に喜びましょう。

 「講座」という名前はついていますが、どなたでもお気軽にご参加いただけます。

2)5月19日 夜7時半より 「満月写経・写仏の会」

 慈雲寺では、いつでも自由に写経をしていただけるように本堂に用意がしてあります。本堂が開いているときは、いつでもご自由に写経なさって下さい。初めての方は、庫裏にお声がけして下されば、ご説明させていただきます。

 また、毎月満月の夜はお月見を兼ねて、写経・写仏の会をしています。皆んなで『般若心経』を読誦した後、毎月少しずつ心経の内容について学んでいます。

 読経は7時半からですが、その前にいらしても、後からおいでになっても大丈夫です。9時頃まで本堂を開けておきますので・・・

 写経は字の上手下手は問題ではありません。穏やかな心で自分に向き合うきっかけと考えて下さい。

 必要な用具は全て用意してありますが、筆ペンを使いますので、毛筆で行いたい方はご自分の道具をお持ち下さい。

 

◎慈雲寺は浄土宗西山派西山浄土宗)に属する寺院ですが、宗派にかかわらない皆さんのお寺です。

 仏事だけでなく、さまざまなご相談に応じますので、お気軽にお声がけください。

電話:052-621-4045

◎今日の写真は仁和寺で見た新緑です。

 

 

平成の終わりに、筍を茹でながら恩人を偲ぶ

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 私が京都の本山で修行をしていたとき、女性は山内に随身することができなかったので、近くの家に下宿させてもらいながら通いました。

 そのお宅では、「尼僧を志す方のお世話をさせてもらえるのはありがたい。」と心から思って下さっている方々で、本当に大切にしていただきました。

 本山のある長岡京市は筍で有名な所で、下宿させていただいていたK家も竹林を持っておられました。筍の最盛期にはお手伝いをする(といっても、素人に筍堀りは無理。せいぜい、掘られた筍を拾い集める程度でしたが・・・)こともあり、掘ったばかりのとびきり美味しい筍を味わう至福の体験もさせてもらいました。

 先日、そのK家の御当主が亡くなられ、葬儀に参列させていただきました。長い間、闘病されていたのですが、お顔は穏やかで、心の優しさが最後の姿にも表れているようでした。

 多くの人たちが参列し、小学校からの同級生たちに見送られての出棺でした。多くの人に愛されていたことが伝わってくる、良い葬儀だったと思います。

 下宿していたときの私の仕事は、毎朝配達される『日本農業新聞』を読み、Kさんが晩酌する時に、そのハイライトをお話することでした。下宿している間に、私はすっかり「農本主義者」になってしまったほどです。

 私が加行(この行を終えると、一応、僧侶として一人立ちできる)を終えたとき、一番喜んでくれたのもKさんご夫妻でした。

 その後も、毎年筍の季節になると、私の実家に見事な筍を届けて下さっていました。

 Kさんを偲んで筍を茹でながら、平成最後の日をゆったりと過ごしています。

◎今日の写真は、此岸から彼岸へと渡ろうとする念仏者の姿を描いた『二河白道図』です。

 

 

供養は誰がしても良いのですか?

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 先日、ある方から「病気でお葬式に参列できなかったのですが、友人のご供養をお願いしても良いでしょうか?」という質問をいただきました。

 喜んでご供養させていただきますとお応えしました。

 以前、このブログにも書いたのですが、家族でなくても、友人や知人などのご供養をしたいというお気持ちのある方は、ぜひ慈雲寺にご相談ください。亡くなられた方の菩提を弔い、供養をささげることは、その気持ちがある方なら、誰がしても良いのです。

 私たちが宗祖法然源空法然)上人の年忌法要である御忌を行ったり、自分に大きな影響を与えた作家の命日に集まって供養をする集い、さらには施餓鬼など、たくさんの例があります。

 家族、親族だけでなく、恩人や友人、知人など、さまざまなご縁の方を供養をして差し上げたいという気持ちあれば十分です。

 特に、さまざまな理由で葬儀に参列できなかったなどというときは、ぜひご相談ください。一人で、もしくは数人の縁者の方々と一緒に、静かにご供養すれば、葬儀とはまた違う、穏やかな気持ちで故人を偲ぶことができるでしょう。

 大げさな用意は不要です。できれば戒名(法名)などがわかれば良いのですが、それを調べるのが難しい場合は俗名だけでも大丈夫です。

 故人の好きだった食べ物とお花をお供えとしてご用意いただけると良いでしょう。

 普段、気軽の相談のできるお寺がある方は、ぜひご住職とお話してください。もし、菩提寺の住職には相談しにくい、又は、相談できる僧侶をしらないという場合は、ご遠慮なく慈雲寺にお声をかけて下さい。

◎今日の写真は大阪市立陶磁器博物館で見た、高麗青磁の油壺です。どんな香りの香油が入っていたのでしょうか?