慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

怠け者尼入道大車輪!

f:id:jiunji:20190722135009j:plain

 蒸し暑いですね。まずは北極海に浮かぶ氷山でいっぷくして下さい。

 

 慈雲寺では毎月一回、「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」というのを行っています。冷暖房設備のない本堂に集まっていただくのは申し訳ないのですが、おかげ様で夏も冬も休みなく続けることができています。

 昨日はその講座の日でした。30名を超える方々が来て下さったので、本堂を開け放っても暑かった!申し訳ありませんでした。

 昨日は、おそらく我宗門史上最も怠け者の「尼入道」(尼僧のこと。蔑称的なニュアンス有り?)の私(あ、こんなこと偉そうに書いてどうする?!)としては、大車輪の一日でした。

 朝は、植木やメダカなど、私に掛かっている命のお世話。講座の原稿の見直し、汗だくでお話・・・午後は墓開きと納骨の法要・・・夜は新聞の取材でご近所で神楽のお稽古をしている子供たちに会いにいきました。

 毎日、激務で働いている方や、仕事と育児、家事を両立させている方からみたら、「昼寝中か?」という程度のことでしたが、私はすっかりくたびれはて、食欲も失うほどでした。

 「篤い信仰心」はもちろん、「字が上手」とか、「声が通る」、「ほかの人の思いに共感できる能力」、「優しさ」などなど、僧侶の資質は一様ではありませんが、「勤勉」は大事なことの一つです。でも私は「声が通る」以外は、ほとんど失格・・・

 それでも、阿弥陀様のお慈悲にすがって今日も生かしていただいています。

 「慈雲寺のポンコツ尼さんでも、阿弥陀様は見捨てないらしいから、私も大丈夫だよね・・・」と思って下さる方が一人でもいれば、お仏飯をいただいて暮らしている申し訳がたつ・・・かなぁ?

 今日はヘロヘロにくたびれているので、衣のほころびを修理しながら、おとなしく過ごすことにします。

 ◎8月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は8月25日(日曜)の10時からです。ご要望が多いので、戒名や法名についてまたお話させていただきます。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加下さいませ。

7月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は21日です。(慈雲寺へのアクセス)

f:id:jiunji:20190720224939j:plain

お知らせが大変遅くなり、申し訳ありません。

7月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は21日(日曜日)、朝10時より行います。

テーマは「お盆の意義とその迎え方」です。祖先を大切にする日本の美しい宗教慣習の一つであるお盆の歴史を振り返り、この伝統を受け継いでいく意義についてご一緒に考えて見ましょう。

 どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加下さい。

◎慈雲寺への交通アクセス


 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。近くの有松ジャンボリーSCに大きな駐車場があり、無料で駐車できます。そこからお寺まで、北へ徒歩5分。
 ★鉄道、バスのアクセス
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。日曜の9時台は二番乗り場から9時07分と36分に発車します。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。日曜は8時45分に鳴子北駅からバスが出ます。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は8時50分発があります。所要時間は約50分
●JRの大高駅から緑循環バスの名鉄有松行で郷前に行くことができます。日曜は8時44分と9時44分に出発します。9時台のバスですと10時の開始時間には少し遅れますが、あわてずにおいでください。
●また、同じ緑循環バスの名鉄有松行は南大高駅東にも停車します。9時9分発と10時9分発です。
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。

17日は満月です。お月見を兼ねて写経・写仏をなさいませんか?

f:id:jiunji:20190716224208j:plain

 慈雲寺では、毎月満月の夜にお月見を兼ねた写経・写仏の会を行っています。慈雲寺の境内は広くはありませんが、本堂の縁側からは、月が夜空を動いていく様子をゆったりと眺めることができます。

 写経は字の上手下手は全く関係ありません。阿弥陀様のお慈悲を感じながら、穏やかな気持ちで自分に向き合うのが第一の目的だからです。『般若心経』の写経をしますが、「南無阿弥陀仏」の御名号を写すこともできますし、愛らしい表情の仏様や菩薩さまの写仏も体験していただけます。

 用具は全て用意してありますので、お気軽にご参加ください。

7月の満月は17日です。7時半から、皆んなでご一緒に『般若心経』を読誦し、毎月少しずつ心経の内容についても学んでいきます。

 しかし、ゆっくり写経をなさりたい方は、早めにおいでになっても結構ですし、7時半に間に合わなくても慌てずにおいでください。

 広くはありませんが、駐車場もありますので、自動車でおいでになっても大丈夫です。慈雲寺の駐車場が満員のときは、近くの駐車場をご案内しますので、庫裏にお声がけ下さい。

 カーナビは「名古屋市緑区桶狭間上の山725 慈雲寺」で検索してください。電話は052-621-4045です。

◎今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は7月21日(10時)より行います。テーマは「お盆の意義と迎え方」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

◎今日の写真は、ネットの無料画像からお借りしました。

 

メダカの里親募集中

f:id:jiunji:20190715223651j:plain

 このところ、ずっとペットの供養について考えています。

 友人の僧侶とその話題で話をしていた時、私が「今、ペットを飼っていないから、いまひとつ現実味がわかないのかも・・・」と言うと、「何言ってるんだ。圓阿さんは何百匹もペット飼っているじゃないか!」と笑われました。あ、そうでした。今年はなぜかメダカが大繁殖。あちこちにお願いして養子縁組をしているのですが、まだまだ孵化し続けています。なぜ今年だけ???

 こんなにたくさんの命の責任を負うのは結構大変。大きな土管を二つ池代わりに使っているので、こちらは餌をやるだけで手入れ無し。

 大きな水連鉢や火鉢を流用しているものは、水を変えてやったりバクテリアの溶液を入れてやったり、怠け者の私としては「大車輪」状態です。

 というわけで、私も命を預かる身であることに気が付いてしまいました。う~ん・・・この子たちに穏やかで幸せな生涯を送ってもらい、たくさんの人達に慰めと喜びを与える功徳を積んで、できれば人間界に輪廻して欲しいものです。

 というわけで、メダカを大切にして下さる方、里親になっていただけないでしょうか?容器を持って来ていただければ、何匹でも差し上げます。ホテイアオイもたくさん増えましたので、良かったらそちらもお持ち下さい。美しい紫の花が咲きます。

◎慈雲寺から北へ車で5分ほどの所に旧東海道が通っており、江戸時代の雰囲気がそのまま残っている一角があります。その有松の旧市街は絞染で有名です。今日の写真に写っているのは、「有松」と名付けられたアジサイです。本当に絞染のように白地に青が不規則に広がっている愛らしい花でした。

 

ペットと人間の合祀について Part2 「皆蒙解脱」について考えてみました

f:id:jiunji:20190714064441j:plain

 いつも鋭いご指摘や、優しいアドバイスをくださる「ももはな」さんが、NHKのニュースで取り上げられたペットと人間の合祀について教えてくださいました。そのニュースがこれ→

https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2019/07/0708.html

 とても興味深いことです。ニュースに取り上げられているのは、議論のごく一部のようですし、「ペットと一緒に眠れるお墓」の理論付けのための論調のように思いました。

 「ペットと合祀できるお墓を作ったら、檀家が150軒増えた」なんてコメントは、「ああ、お寺さんも新しい商売始めたな・・・」なんて印象付けてしまわないか・・・と心配になりました。

 驚いたのは、「皆蒙解脱」という経文をペットと人間の合祀を肯定する理論づけに使っていることです。ペットと人間を同じ墓に葬ることを肯定した経文を新発見!というような論調のようです。もちろん、ニュースを全部読んでいませんし、大事なところが報道の都合の良いようにカットされている可能性もありますが、この浄土宗の教学研究所の研究員の僧侶は、今、かなり苦しい立場に立たされているのではないでしょうか?

 「皆蒙解脱」は、別に新発見の経文でもなんでもありません。

 阿弥陀仏法蔵菩薩の時代に「全ての衆生を往生させる。すべての衆生を迎え取る極楽というお浄土を作る」という誓いをたてられ、その誓いが成就しない限りは、仏にはならないと誓って、修行に入られました。

 本来なら私たちが自分でしなければならない修行も懴悔もすべて私たちに代わってやりつくして、今、阿弥陀仏になっておられるのです。ですから、阿弥陀仏の側から見れば、すべての衆生は往生が決まっています。全ての衆生は条件の整った極楽で修行と懺悔をやりつくして、解脱していきます。これが「皆蒙解脱」です。

 しかし、私たちは仏の願いを知らず、私たちが積み重ねた「業」のために、仏の思いに気が付かないまま輪廻を繰り返してきたのです。

 仏教では縁が満ちて結ばれないと仏でもどうすることもできない。でも、阿弥陀仏は全ての衆生が極楽に往生するまで、辛抱強く待っていて下さいます。

 往生の条件は、この阿弥陀仏の願いを「聞かせてもらうだけ」で良いと証空上人は教えています。お念仏をたくさんするからでもないし、ゆるぎない信仰が条件でもない。阿弥陀仏の思いを聞かせてもらって、「ああ、そうだったのか・・・」と気が付くだけで良いのです。

 しかし、仏典では、この仏様のお言葉「仏語」を聴くことができるのは、人間と天人だけです。

 ペットのことを大事に思うなら、動物として生きている間、できるだけ穏やかに幸せ暮らしていけるように、たっぷりと愛情をそそぎ、できるだけ早く仏縁を結ぶことができるように廻向してあげることが大事だと思います。

 だから、前のブログにもかきましたが、「ペットと飼い主」という関係に執着して、お墓の中でもそれを続けたいと願うことが、本当の愛情なのでしょうか?

 でも、ペットの遺骨をゴミのように扱いたくないという気持ちはわかりますので、どうしても合祀したいというご希望なら、私のお寺ではあえて反対はしませんが、上に書いたようなことは、しっかりお話させていただいた上でのことです。

◎今日の写真は、慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺でみた竹林です。

 

ペットと飼い主が同じお墓に?

f:id:jiunji:20190709203432j:plain


 このブログを読んで下さって、時々するどいコメントを残して下さる「ももはな」さんが、

”そうそう!
住職って、動物と人間が一緒に埋葬される事をどう思いますか?”

 というコメントを残して下さいました。

 先日、大阪のあるお寺を訪ねたところ、墓地にペットと飼い主が合祀されているお墓がいくつも並んでいるのに気が付きました。墓石の前に、可愛らしい猫や犬の石像が置かれているデザインです。ペットを亡くして悲しんでいる人には、「欲しくなるお墓」だと思いました。しかし、動物と一緒に埋葬しても良いのかなぁ・・・以来、とても気になっていたところに、ももはなさんの質問でした。

 私が慈雲寺に赴任してから、数件、「ペットの供養をして下さい。」と頼まれたことがあります。長年、家族の一員のように可愛いがっていたペットですから、供養して欲しいという気持ちは私にもよくわかりますので、喜んでお引き受けさせていただきました。

 しかし、極楽で再会するときには、「ペットと飼い主」として出会えるわけではないことをきちんとお話させていただきます。阿弥陀仏は全ての生きとし生けるものを極楽へ迎え取ると誓って、その誓いを成就されています。

 しかし、仏の教えを聞くことができるのは人間と天人だけです。ペットは輪廻をしていかなければなりません。ペットに廻向をすることによって、そのペットが早く人間に生れ、仏の教えに縁を結ぶことを願ってあげることはできますが、「ペットと飼い主」という縁は、ここで終わるということをお話します。

 このお話をしたうえで、ご供養をさせていただいています。

 さて、ももはなさんのご質問ですが、「ペットと一緒にお墓に入りたい」という気持ちはわかります。お墓を「終の棲家」と考えると「ペットにも一緒にいて欲しい」という気持ちになるのでしょう。しかし、ペットを「私のペット」という思いで、「畜生道」にとどめておくのではなく、仏様との縁が早く結ばれるように願ってあげる方が良いのではないでしょうか?

 このようなお話をさせていただいた上で、ペットの遺骨をどこかに処分するのではなく、お墓に入れたい・・・という申し出があれば、私は反対はしません。

 しかし、大阪のお寺で見たような、ペットを悼む飼い主の気持ちに”付け込む”ような最近の「ペットと飼い主合祀墓」には、商売の匂いを感じて嫌な気持ちになります。

 ももはなさんの質問に、ストレートなお答はまだできません。でも、「ペットと飼い主」という関係に執着するのは、結局そのペットの極楽往生を阻害していると思うので、理論的には反対かなぁ・・・。

◎今日の写真は奈良の薬師寺で見た蓮の花です。やがて全ての衆生が極楽の蓮のうてなに乗せていただくことになると、お釈迦様はお説きになっています。

 

出家したのに「家」の名前?

f:id:jiunji:20190707063603j:plain

 先日、「お坊さん同士はどんな名前で呼び合うのですか?」という質問を受けました。

 僧侶も在家の方と同じように、田中さんとか山田さんとか呼び合うのですが、私は以前からこのことに違和感がありました。

 「出家」して「家」から出ているのに、家の名前で呼び合うのって変じゃないですか?まあ、浄土真宗の方々は親鸞さまの時代から家族を持っていらしたので、「大谷家」というような名前を背負うのは当たり前ですし、明治以降は多くの僧侶が結婚して家族を持つので、「苗字」から離れられないのは仕方がないのかもしれません。

 でも、私たちは出家したときに僧名を師僧からいただきますし、一応の修行を終えたら「名号」を授けられる宗派も多いでしょう。

 例えば、慈雲寺の属する浄土宗の西山派は、宗祖の法然源空法然上人)以来、「空」の字を師から弟子へと受け継いできました。源空から西山派の流祖證空に受け継がれ、末弟のさらに末である私も「コウクウ」という空号をいただいています。私の「コウ」の字はとても特殊ですぐに出てこないのが情けないですが・・・鳥が羽をバタバタさせて飛んでいる状態を表す漢字です。ちなみに、羽を伸ばしてスーッと飛んでいる状態は「翔」です。

 せっかく源空さま(法然上人)から続いている名前をいただいたのですから、僧侶は「空号」で呼び合ったらどうかと思うんですが・・・源空さまの時代には、どんな名前で呼び合っていたのでしょうね。

 ちなみに有名な法然上人の『一枚起請文』の最後も「源空」とサインが入っています。

◎今日の蓮は一宮市にある浄念寺に咲いていたものです。