慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

「行きつけのお寺」がある幸せ Part3

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 子どもの時から、先祖代々の菩提寺に親しんできた人、「行きつけのお寺」のあることの幸せについてお話してきました。今回は慈雲寺の事情についてお話します。

 中部地方には、かつてはたくさんの尼寺がありました。多くの場合、檀家はほとんどない小さなお寺です。住職は、お花やお茶などを教えて生計を立てたり、近隣の大きなお寺の下働きをしたりしていたようです。

 慈雲寺は、ある裕福な方が自分の信仰のために建てたお寺です。そのため伝統的な意味での檀家はゼロ。墓地は少しあるのですが、村の共同墓地が閉鎖されることになって、移動してきた方がほとんど。その家の菩提寺は近隣の別のお寺です。

 というわけで、慈雲寺はかなり特殊な状況と言えるでしょう。今までの住職たちは、裁縫やお花、お茶などを教えたり、近隣の大寺の下働きのようなことをして生計をたてていたようです。前回お話したように、私も兼業住職です。

 経済的には厳しいですが、その分「自由自在」の面もあって、私には向いていると思います。「どなたでもおいで下さい。どのような形でもお手伝いできることがあったら嬉しいです。」と言えるもの、こうした事情のおかげです。

 「菩提寺が遠いので、法事をお願いできますか?」とか、「たしか、祖母は『南無阿弥陀仏』と称えていたようだけれど、自分の家が何宗か知らない。」といったご相談にも柔軟に応じることができるのも、慈雲寺の特殊性だと思います。

 

 繰り返しますが、私は「檀家と菩提寺」との関係を大切で良きものだと思っています。しかし、それは「墓を人質にとられた、面倒くさい関係」であってはなりません。

何より、自分の信仰、心の拠り所としての「菩提寺」であるべきでしょう。

 

 慈雲寺に赴任してすぐ、ある方から「最近、近くに越してきました。檀家にはなりたくないのですが、法事をお願いできますか?」という相談をいただきました。「檀家になりたくない」とはどういう意味なので、深くは伺いませんでしたが、以来、お盆、お彼岸、祥月命日と必ず「お参り、お願いします」という連絡をいただきます。仏事をすべて慈雲寺に頼んで下さるのに、「檀家にはなりたくない」とは、どういうことなのでしょう?

 ひょっとしたら、「檀家」というのは、お寺の修理などの時に負担金を割り当てられる家という意味なのでしょうか?う~~ん。

 お寺がボロボロになってつぶれてしまったら、困るなぁ・・・自分も家族も、そして自分の子孫にとっても心の拠り所なのだから、なんとか支えたいなぁ・・・と思っていただける関係が「檀家と菩提寺」ではないのでしょうか?

 

 そんな甘いことを言っていては「寺院経営」はできないのかなぁ?

 と、いうわけで、この問題はまだ結論がでません。

 

◎今日の絵は、前回のものと対になった杉戸に描かれた円山応挙の作品です。