ご近所の空き地に、小さな、小さな朝顔が咲いていました。秋も深まり、最後の力を振り絞って咲いているという感じ・・・・☝の円山応挙の絵を思い出しました。
さて、前回は「行きつけのお寺」がある人の幸せについてお話しました。先祖代々親しんだ教え、お寺、そして子どもの時から和尚さんや尼僧さんに可愛がってもらった記憶・・・そんな「心の宝」を持っていることの幸せです。
でも、もし故郷を離れたり、何等かのことで菩提寺とのご縁が切れてしまった時のために、新たに「行きつけのお寺」、「仲良しのお坊さん」の縁を紡いでいく方法を探してみましょう。
まずは、ご近所で法話の会や座禅の会、仏教の勉強会などの布教イベントを積極的に行っているお寺を探してみて下さい。新聞の文化欄や宗教欄にイベントの告知が出ている場合があります。ちなみに、中日新聞の場合は火曜日、東京新聞は土曜日の文化欄を見て下さい。
ほとんどのイベントは「檀家」でなくても歓迎してくれるはずです。新聞に告知を掲載しているようなお寺ならなおさらです。
しかし、Part1で少しお話したように、ご縁ができたと思っても、法事などを依頼すると、「檀家にならなければお受けできない」と言われることもあるそうです。
これはけして意地悪で言っているわけではないでしょう。お寺の事情はそれぞれで、一概には言えませんが、いくつかの理由が考えられます。
1)日本中のお寺の大半は「兼業」です。一部の観光寺院などを除いて、お寺の行事や檀家さんからのお布施だけで、お寺を運営し、住職の家族を養うのに十分な収入のあるお寺は少数派です。住職やお庫裏様(住職の妻)が、お寺の外で仕事をして、その収入で家族を支えている寺院が7割ぐらいと言われています。
平日は仕事に出ているので、法事を受けられるのは週末のみということになると、小さなお寺でも、檀家さんの法事だけで手いっぱいというのも不思議ではありません。
2)お寺は檀家さんのもの。檀家の方たちが、先祖代々、金銭的にも労力の面でも、支えてきたお寺です。ですから、「お寺は檀家さんだけに利用権がある」と考える人もすくなくありません。
3)だからこそ、法事などでお寺を利用するなら、まずは檀家になって、お寺を支えていくという意思を表明すべきだ
上にあげたものの他にもたくさんの理由があるかもしれませんが・・・・観光客を迎えるつもりのないお寺が、いつも山門の柵を閉じて、やたらに人が入ってこられないようにしているのは、防犯だけの意味ではないようです。
慈雲寺は幸い(?)なことに、かなり特殊なお寺で、伝統的な意味での「檀家」はゼロ。経済的には非常に心細い状況ですが、見方を変えば「不思議な自由」があるのです。このことについてはまた次回お話しましょう。(つづく)