日本にお念仏の教えを確立された法然房源空上人(法然上人)は、比叡山で修行を始めると、すぐに「智慧の法然房」として知られるようになったほど優れた方でした。しかし、それでも「自分の力が足りない」、「悟りを得るような修行のできる器ではない」と悩み続けていたのだそうです。
法然上人のように、まじめにお釈迦さまの教えを学び、戒を守り、なんとか悟りの道を進もうと努力すればするだけ、かえって自分の資質が修行に耐えことができないとか、末法という環境条件の整わない時代に生きていることを自覚してしまったのでしょう。
法然上人は「煩悩を取り去らねばならぬ念仏なら、目鼻を取り去って念仏もうさねばならぬ」と悲痛な面持ちで語られたといいます。心を集中し、煩悩を消し去って念仏をしなければならないとなると、末法の時代に生きる私たち凡夫が往生するのは、ほぼ不可能でしょう。
私たちは「煩悩具足の凡夫」から自力では抜け出すことができないのです。だからこそ、阿弥陀仏の真実の慈悲を受け入れて絶対他力の信仰に生きる以外に、私たちが進む道はないでしょう。
全ての生きとし生けるものを救うと誓われた阿弥陀仏の本願を受け入れて、「ああ、そうだったのか!嬉しい」と思わずこぼれ出るのがお念仏です。お念仏をするから救われるのではありません。
いったん、自分が「凡夫」であり、「自力」では救われの道はない・・・阿弥陀仏の願いにおまかせしよう・・・と思ったとき、お念仏が喜びになるのです。
そうなったら、お釈迦さまがお諭になった「悪いことをしない、良いことをする、他人のためにできることをする」という菩薩の道を歩き始めましょう。
良いことををするから救われるのではなく、救われている自分の喜びの表現として行動を起こすのが菩薩の道なのです。
自分が「凡夫」であることを自覚するのは、けして容易なことではありません。しかし、凡夫の自覚こそが、信仰心を育む大切なポイントです。本当の安心(あんじん)もまた、ここから生まれるのです。
◎今日の写真は、今、サミットにも参加しているカナダの首都オタワにある国会議事堂周辺の夜景です。