前回、「南無」とは、サンスクリット語の「ナモ」の音だけを漢字に充てたものだとお話ししました。
では、「ナモ」は漢語でどのように訳されているのでしょう。法然房源空上人(法然上人)が敬慕してやまず、自己の念仏信仰の根拠とされている善導大師は、この言葉を「帰命」と翻訳・解釈しておられます。
帰命とは、文字通り、命を帰する。命を仏に奉るというい意味です。私たち衆生が一番大切にして手放したくないものは己の命です。衆生が命をおしまず、仏に帰するというのが本来の南無の姿のはずです。
自力での信仰の場合は、この懸命な信仰こそが救われの道ということになるでしょう。
では、絶対他力の浄土の教えでは「南無」はどのような意味合いなのでしょうか。
私たちはしばしば、「一所懸命に祈った」とか、「懸命に願った」とか言いますね。命懸けで念仏する・・・「南無阿弥陀仏」の称名こそ、その帰命のあらわれ・・・・と思いたいところです。
ところが、法然上人の高弟、善慧房證空は、「誠に命を惜しまず仏に帰すると思って、南無阿弥陀仏と称えても、私たちの心中には、命を惜しんでいます・・・命を惜しまなければ往生するというなら、私たちの往生はあきらめねばなりません」(『述と成』)と鋭く指摘しています。
私たちは本当に命懸けで信じることができるのでしょうか?
證空上人は、法然上人から受け継いだ教えの中で、とりわけこのポイントを重要視しています。
阿弥陀仏は、私たち凡夫がどれほど己の命を惜しむものか良く分かっておいでで、そういう私たちを摂取して仏となられたのです。私たちの「一所懸命」も「一生懸命」も、すべて私たちに代わって、阿弥陀仏が法蔵菩薩だった時に成し遂げてくださっているのです。
私たちは、命を惜しむ凡夫であるという自覚、そしてそれを承知の上で救ってくださる仏が阿弥陀仏であることを心得え、「そうだったのか!」と喜びに満ちたときに、口からこぼれ出るのがお念仏だと、證空上人はおっしゃっています。(つづく)